一日目/未知の世界へ/二日目/東部調査と雑魔迎撃/二日目/二つの世界の邂逅/三日目/出港前夜
●その御手からこぼれ落ちて
「私は……どうして無力なの……?」
アンジェリナ・ルヴァンが、わななきながら両手で顔をおおったのは、このような異界にあってすら、その存在と出会ってしまったからだった。
なぜ、ここにすら、あれがいるのか?
大切な人の命を奪ったにっくきヴォイド。
たとえ歪虚と呼ばれようとも、同じ存在だと分かる。クリムゾンウェストにおいてすら出会ってしまった、今となっては私には何ができるのか――軍人でも何でもない自分の無力さを思い知り、生きる希望も見失って両膝から崩れ落ちると、ただ泣くことしかできなかった。
こんな風に悲観する者もいれば、前向きに生きるしかないと開き直る者いる。
たとえば岬崎美咲が、そうだ。
「それで、元の世界に戻る方法はあるのでしょうか? それを成すために何をすべきでしょうか。私は生きて帰りたい! その為にハンターの皆様には――」
きりっとした表情で、この地の人々に語りかけていた女の顔が一変した。
視野をよぎったキノコの姿に一目惚れをしたらしい。
なんにしろ現金なものであり、元気なものだ。
人間の精神ほど素性のしれぬものはないらしい。一方、この邂逅に対してはクリムゾンウェスト側でも様々な意見がある。
「素性が知れないという意味では歪虚と彼らは変りません! 帰って貰えるならば帰らせるべきです!」
イルがクロウに言う。が、クロウはそんな真摯な言葉にも肩をすくめるだけであった。
「それは歪虚を全て、この世界から消してしまおうという程度には簡単な話だな」
クロウにはわかっていた。
かつて、異世界からやって来た来訪者も、その多くが戻ることができず、戻れた者の数など、たかがしれていた。
いや、その少数についても伝聞であり、伝承の中でそう語られているだけで、ある日を境に姿を見なくなったというだけの話だ。実際に帰ることができたかどうかなど今更確認のしようがない。
しかも、これほどの大人数が同時に転移してくるなどという話は前代未聞の出来事であり、歪虚だけではなく人間の諸国、それどころか戦艦の出方すらわからなかった。
●会議は踊る
ダニエル艦長が葉巻をくわえながら会議室の中を見回す。その髭に隠れた口元はやや苦笑気味だ。
それもその筈で、佐官以上の幹部を集めての会議で始まったものが、いつの間にか、部下の誰それの意見も、誰それの情報もとなって人が人を呼び寄せてこの大所帯だ。
ここが地球ではないというのは、軍人たちもすでに理解はしている。
しかし、政府や上層部の許可もなしに未知の生命体とのコンタクトをとるということは軍人という立場から考えれば、難しい問題であった。
紫藤 道が状況を整理してボードに書き記してから、いい加減にしてくれという顔になってボードに書かれていた内容を消して、書き直したりした。
冷静な議論をするつもりだが、彼もいつの間にか議論の迷宮に迷い込んでしまっていた。
要点は、こうだ。
1.衣類は軍用を提供、裁断すれば子供用まで凌げる
2.食糧調達は被害出す前提なら可能
3.しかし様子見は連日の脱走を覚悟するべき
(……進めば博打、止まればジリ貧、か)
紫藤は自分の道化ぶりを笑いたくもなった。
そして、また議論は最初に戻る。
「現状では、方針を決定する判断材料が足りません」
シンイチ・モリオカが異議を唱えたのだ。
「今は行動し、情報を集める時だと判断します」
そして、かれらが無意識のうちに意識の埒外に置きたがっていた事実を告げた。
「この星に我々以外の人間が存在する以上、交流は不可避です。どのようなスタンスを取るにせよ、接触は早期に行うべきと考えます」
その時、イレア・ディープブルーが会議室に駆け込んできて、調査隊と歪虚の接触、そしてハンターの介入があったことを伝えた。
「ハンター? なんだそりゃあ?」
艦長が眉をひそめる。
「なんにしろ、この世界にも、我々の世界のヴォイドのように危険な存在がいるようですね」
イレアが意味ありげな微笑を口元に浮かべた。
「本艦をロストした地球側の損失は大きく、よって私たちは早急に帰還する手段を講じるべきです。その為に必要なのは――」
●偶然と必然の狭間で
「いなくなったはずなんだがな?」
クロウが首をひねっていた。
キノコがいる。
あるのではない、いるのだ。キノコに似たそれは、神霊樹に関わる小さな精霊だった。興味の対象さえあればどこにでも姿を現すパルムはかつてこの島にももちろんいたはずだ。しかし、歪虚の勢力が強い場所ではさすがに居心地が悪いらしく、目撃数を減じていたと聞く。
それにしても、幼いパルムだ。
クロウが知っている中でもかなり小さな個体だった。
「まるで、わたしたちみたいね」
おいで、と――佐藤 彩音が手をのばす。
白い指先が手招く。少し離れた場所で様子を伺っていた精霊が、やがて好奇心に負けたように人間たちの方に向かってくる。
とてとてと、ばたん。
見事に転んでしまった。
その途端、可愛いものには目がないリアルブルーの一団が、どっと押し寄せた。
「きゃあ、かわいい!」
「――あの、あれ、さ、触ってもいい、ですか……?」
「わたしにさわらせてよ!」
「いや、俺だ!?」
「ああぁぁぁ萌え、萌え」
「この子の名前は、きのこさんですからね!?」
目の色を変えて、きのこさんのまわりに顔をすっかりゆるめきった大人どもの群れが集まった。
「お茶淹れてきたよ! とりあえず落ち着いて話そう……」
クレールはそう声を掛けかけて、絶句。
彼女が想像していたのとは違った意味で落ち着きを失ったリアルブルーの人間たちの姿が目の前にあった。後にクレールは今まで見た中でもっとも恐ろしく、おぞましいモノが、そこにはあったと友人に語っている。
こほん。
「転移したばかりじゃ状況も解らないだろうけど、とりあえずこの辺は大所帯を賄えるほどの食糧は採れないの」
クレールにこういわれ、民間人たちは不安気にざわめく。
と、どこからか騒がしい声がしてきた。
「異世界から来ただって!? あぁ、伝承ではいくつも目にしたが、本物に会えるとは……!」
ルスティロ・イストワールが目を輝かせ民間人を捕まえては質問攻めにしている。些細なことまでしつこく聞いて、もっと聞きたいからこの世界に居座れとまで言い放つほどだ。
いつしか、その周囲にも物好きたちが集まってきて、さながら見せ物である。
「あれが空から降ってきた鉄の船、か。どういう仕組みで動いてるんだろ?」
クロード・インベルクが遠くに見える異界からの漂流船の姿に感嘆をあげるその横ではバラガスが反対にがくがくぶるぶると体をふるわせている。クロードに告げられた、巨大な鉄くずが空を飛ぶという事実に気持ちが追いついていないらしい。
バラガスはそれでも頭では興味をもって理由を尋ねる。だが、返って来た答えは。
「はんじゅうりょくそうち?」
クリムゾンウェストには存在しない概念を、リアルブルーの抽象的な言語の羅列で説明されてもちんぷんかんぷんだ。それでも、とりあえずそういう難しい物を直す為には、この世界の機械専門家である機導師を目指すのはいかがと薦めてみたりするバラガス。
そんな風に民間の交流が始まれば、まず、男女の中になってから親愛の情を語り合おうとする者たちが生まれるのも必然――なのか?
まあ、なんにしろ葵 涼介と都筑新がナンパをしているという事実に変わりはない。
それに捕まった可哀想な生贄……じゃなくて現地人はラウィーヤ・マクトゥーム。
転移者の逸話を綴った本の知識から、彼らを好意的に捉えているという純粋な子羊さんなのだ。彼女に向けられる狼さんたちの視線が怖いです。
ラウィーヤは高速船にわざわざ食糧、衣料品、酒類、嗜好品など積み込んできたほどのお人よしさんだが、人付合いに不慣れなため言葉少なめ。
「参考にはなるかな、と……」
「ありがとう。余り分かっていないので、心細くて……そうだ、お話を聞かせて頂けませんか? 貴女について――」
涼介がそんな彼女の肩をいかにも慣れた様子で抱いて微笑むものだから、妹のラミア・マクトゥームが牧羊犬のようにがなりたてる。
「あ、おい! 姉さん!」
そんな友人の態度に苦笑しつつ、相方の新もそんな美女姉妹の片割れに声をかけて、色々とお喋りをした。例えば、彼らの住む世界について。
「へぇ、色々あんだな。戦わなくても生きていける、か……」
そう、新の言う通り戦わなくとも生きてはいける。
しかし、
「人間腹が減りゃ飯を食わなきゃいけねぇ」
ジャックが言うとおりだ。
「自前の飯があってもいつかは切れる。そん時どうすんのかって事よ」
持ってきた果実を一口齧り、来訪者に与え、にやっと笑った。
「この世界も悪くないぜ?」
ミルドレッド・V・リィも同意見。
「人間、結局は即物的な要求案件を満たすのが第一よねー?」
本心は隠した、澄ました態度で勧誘を行う。
「衣食住タダだわよ? 恋愛も自由ね? 国家間係争や陰謀論の渦中が好き? そ? じゃユニオン作れば?」
その誘いに、まず頷いた者がいた。
綺羅・K・ユラである。
彼女には予感があった。
(やっぱり兄貴はここにいるんだろうな、なんとなくわかるんだ! だから話してみたいな。獅子のような男を見かけなかったと。いるのであれば自分はハンターでも何にでもなろう――)
●賽は投げられた
やはり会議は、踊っていた。
終わることのないワルツは終わることなく繰り返される。
主題はこの土地の知的生命体とのコンタクトを受け入れるか、拒絶するかの二つしかないのに、かくもさまざまな編曲が存在するものだ。
涼野 音々が意見を求められ、発言をする。
「一生……此処で暮らしますか……? 民間の人、が……外に……。この世界を見る、と……言っているんです……。私達が腰抜け、で……示しがつきます、か……?」
あいかわらずダニエルは腕を組んだまま椅子の上にふんぞり返っている。
だが、艦長に近い地位にいる士官たちの数名はそうではなく、中にはあからさまに彼女の意見に不快感を示す者もいた。
「いかがですか?」
茶の香りに振り向いた一同の視線の先にはお茶を差し入れてきた鳳・七花。
「私達は皆の命を守る立場、慎重になるのは当然です。けれどここは私達の知る場所ではありません」
外で皆が飲んでいた茶を分けてもらってきたのだという。
「だから慎重にならざるを得んのだよ。たとえばこの茶とて、いまはよくとも他の星の住人である俺たちには蓄積して毒になる物質が入っているかもしれん!」
茶の入ったカップを見下ろしながらいかにも神経質そうな士官の一人が吐き捨てる。
それに否と唱える者がある。
初月賢四郎だ。
「軍政や兵站では自分も本職です。現状だと、遠からず干上がるのは必至、信じずとも組まざるを得ないでしょう。移動しないなら、自分は希望者を募り、船を下ります」
「脅しかね?」
ぎろりと彼を睨む士官。
流石にサルヴァトーレ・ロッソの士官に選ばれるだけあって、本気の艦長ほどではないにせよ生半可なプレッシャーではない。
賢四朗は腹に力を入れ、震える足に喝を入れ、乾いた口から精一杯の抵抗を示す。
「そう思っていただいても、構いません」
それに対して、士官が何か反論をしようとした時である。
突然、扉の外が騒がしくなってきたかと思うと扉が開き、多くの人間が入り口に立っていた守衛を押し流すようにして部屋になだれ込んできた。見慣れた同朋ではなく、明らかに異質な装束の人間。
この光景に、会議室に座っていた軍人たちの一部が反射的に腰に手をあてて、銃を構えて立ち上がる。
会議室は一触即発の雰囲気に包まれた。
「……やめねえか」
事ここに及んでも泰然自若と葉巻をくゆらせたダニエル艦長はゆっくり手を上げ、いきり立った部下を制する。
軍人も、そして闖入者も重苦しい緊張に包まれる中、まずアルトゥライネルが語り始める。
即座に、高官たちの間にざわめきが広がる。
翻訳も無しに意思疎通ができる事は、既に艦の首脳部にも報告されている。だが、彼ら首脳陣が実際にこれを体験したのははじめてだったのだから。
「青き異界から来た勇者たちよ、お互い、新しいものや状況に対応出来ないようじゃ先は無い。この島ではあんたらが守りたいものも守れないのは目に見えているだろう。利用される前に利用するくらいの気概で来てみたらどうだ?」
異常事態に気圧されたせいもあるのだろう。首脳部の何人かはアルトゥラネイルの説得に対して明らかに動揺した様子を見せた。
それを好機と見たのか藤堂研司が勢いよく起立して大声を張り上げる。
「新兵ながら、進言します! 現実の問題として、我々にこの地の情報が余りに不足しております。彼らが我々と敵対するならば、奇襲の機会はいくらでもありました。真意はいざ知らず、今は情報の収集こそ先決と考えます!」
それを皮切りにして、兵たちが次々と意見を述べる。
やがて、レベッカ=ヘルフリッヒが手を上げ、艦長と闖入者たちのいずれにも、今後生活する上では、如何しても接触せざるを得ないのではないかと進言する。
そして、やや小さな声で、だが全員に聞こえるようにこう付け加えた。
「いずれにしてもちゃんと話をするべきだよ。ボク、交流は大事だと思うんだよ、ね?」
ついでアバルト・ジンツァーが、生活物資を確保する手段が乏しい以上こちらの世界との接点は確保しておくべきである。故に場所や人員などに一定の制限を設ける事で不慮の事態に備え、その上で当面の間交渉は続けるべき、との意見を出す。
また、サキ トレヴァンツがまだまだ謎が多いこの惑星で民間人の自由を許すのは気が引けるが、怪物の脅威から守ってくれたハンターは信用に足る者達だと語り、こう結んだ。
「帰還の目途も立たぬ以上、ここは現地の調査も兼ねて援助を求めるべきでは」
続いて高嶺瀞牙も首脳部へ進言した。
「そうです。当艦は孤立した状況です。雑魔とやらの脅威もあり、艦の戦力のみで民間人を守るのは難しいかと思います。提案を受けた方が、救援の当て無く彷徨うより事態打開の可能性は高いかと思います――」
「貴様! わきまえろ!」
士官の一人が怒鳴った。まさに殴りかからんとするほどの形相だ。だが、側にいたセレ・ファフナがその肩を押さえ、その耳元に恐れながらと提言をした。
「今、彼らとの交渉を無碍にする事は私たちにとってはともかく、民間人にとっては好ましい選択ではない筈です。全面的な信用が難しいというのなら、数名が先だって彼の地を視察するという手もあるかと……」
ぎょろりとした目で周囲を睨み、いらだちを押さえるように両腕を組むと士官は再び腰をおろした。
アイゼリア・A・サザーランドが落ち着くようにと言った。
「我々はこの世界について何も知りません。知らなければ知っている人に教えを請うのは当然のことでしょう」
教師らしいアイゼリアの忠告に強硬な態度を見せていた士官の何人かがはっとした様子を見せた。
(なるほど、面白いことが起こりそうじゃねーの)
戸惑う者もいれば、三日月壱のように状況を好ましく思っている者もいる。
「僕達の艦には民間人の方が沢山います! 食料問題などもありますし向かってみる価値はあると思います」
それは建前でリゼリオに向かうように誘導するのが、みえみえだ。
アニス・テスタロッサがこう言う。
「クルーの命を預かる立場だから軽々に答えられないってのは解るけどさ、差し伸べられた手まで掴まないってのは無しじゃね? 立ち往生してるよりは足掻いた方が良くも悪くも事態転がるしさ」
勿論、艦長らが預かるのはクルーの命だけではない。ラーシュ=オロフが口を開く。
「民間人の命預かるんだ、簡単に頷けねぇわな。そこは許してくれ。だがまぁ……リゼリオ行きには賛成だ。この大人数だ。目をつけられた以上従った方がいい……なんてな。助けてくれるんだろ?」
ラーシュの冗談めかした口調に、一部の真面目そうなハンターたちが頷いた。
最後に、敬礼をした黒田 ユニがこう述べた。
「私はハンターの皆様を信じたいと思います。私を助けてくれた民間人の少女は、負傷者の今とこれからのことを嘆いておりました。私は彼女の不安を払拭したい。物資は何時か底を付きます」
「それは、わかっている!」
士官の一人は、うんざりするほど聞かされていることを繰り返され、ついに堪忍袋の尾が切れたのか、立ち上がり怒鳴り散らそうとする。
その時だ。
一同の目の前に、ひょっこりとなにかがあらわれた。
「な……――」
怒鳴ろうとした士官が絶句する。
やぁ!
手足のはえたキノコだ。
やぁ! やぁ!?
そんな風に小さな精霊が手を上げている。
佐藤が両手で、きのこさんを持ち上げていたのだ。
絶句したのは士官ばかりではない。それまではどこか悠然と構えていたダニエルも含めてその場に居る軍人と民間人全てが、いや、パルムなど見慣れている筈のハンターたちまでがこの時ばかりは呆けたように佐藤のきのこさんを見つめた。
そして、その沈黙は誰かの小さなクスクス笑いによって破られた。
笑ったのは誰だ、などという者はいない。
何故なら、その場にいるすべての者が程度の差はあれ笑っていたのだ。怒鳴ろうとした士官も。ダニエルでさえも。
人の精神は時に理不尽な物。この時、何故場の空気が一変したかを分析するなど意味の無いことなのかもしれない。
それでも、敢て説明するなら――それまでは戦艦の最奥部に閉じこもって異世界について机上の空論を論じ合うだけだった首脳部が、パルムという異世界の証拠をつきつけられてようやく目が覚めた、というところだろうか。
「私の国には『郷に入りては郷に従え』という言葉があります。今がその時かと」
この空気を逃さず鳳が再度、決断を促す。
「どうせここにいても危険はあるんだ。お偉いさんたちを代表して、艦長に決断をしてもらわないとな。煮え切らないなら……天に決めてもらいましょうか」
駄目押しとばかりに対崎・紋次郎がポケットからコインを取り出した。コイントスをして裏か表かで決めろということだ。
「……言うじゃねえか。面白れえ。俺は表だ」
多少は冷静さを取り戻してまだ何か言おうとする幕僚の一部を制して、ダニエルは葉巻を口から放す。
全員が無言になった中で紋次郎によってコインが投げ上げられ、輝きを放つ。
それを受け止め、確認したダニエルはニヤリと笑う。
「裏だ」
この場に居る多くの者が失望にため息をつく中、シルヴィア・カラーズがなおすがりつことうする。
「安易な言葉かもしれないが……信じてほしい。そして一時的にでも共に同じ道を歩めるなら、私たちは仲間だよ」
しかし、ダニエルはもはやそのような声には耳を傾けない。
「俺が賭けたのは表……勿論、全面的に信用する訳にはいかねえが、まずはそのリゼリオとやらに向かう事にする」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、歓声が会議室を埋め尽くした。それは、あの凄惨な戦闘の後、このサルヴァトーレ・ロッソを覆っていた暗雲を吹き飛ばすかのような凄まじさだった。
「話、まとまったかしら?」
声がした。
そこにはすでにラッキー・ベルが酒を準備して待っていたのだ。
「腹わって話すなら酒よね! ささ、配るわよ!!」
交渉が成功するだろうと踏んで用意した祝い酒であるらしい。
まだ用心の溶けぬ部下たちが背後から止める声を振りきり、ダニエルは杯を受けるとそれを高く掲げ、叫ぶ。
それは、彼の故郷で乾杯を意味する叫び。
一斉に、様々な言語で乾杯の叫びが上がる中、誰一人として、そうあの堅物そうな士官でさえもこの宴会が終わるまで気づかなかった。
ダニエルが、どちらに賭けるかを明言していなかった事に。
執筆:まれのぞみ/監修:稲田和夫/文責:フロンティアワークス
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●パーティ会場
その男は、愛する人に触れる手つきで竿を操っていた。
透明な海面が大きく揺れて、ぱしゃんと音を立てて20センチはある魚が釣り上げられた。
「釣りはいいねぇ」
クリムゾンウェスト出身のハンター、シルヴァーノ・アシュリーは穏やかな表情で目を細める。
島は平和で空気がうまい。日差しも風も穏やかで、できればここで数日骨休めをしたいくらいだ。
「んん?」
ふと、シルヴァーノは4尾目を魚籠に入れながら目を開く。透き通る海を透き通る肌の美人が泳いで近づいてくるのが見えたのだ。
彼女が手に持っているのはちょっと綺麗で素晴らしく美味しい貝だ。焼いて良しアクセサリーにして女に贈って良しの一品。
「こんにちはっ」
パシャッと勢いよく、ただし釣り人の邪魔にならないよう気をつけて紅鬼 雫は水面から上半身を出すと礼儀正しく挨拶。
白い肌に張り付いた銀の髪が艶めかしく、人並みの自制心しか持たない男なら犯罪行為に走ったかもしれない。だが、シルヴァーノには愛する妻がいる。彼は零の持っている貝が何処で採れるのか聞いてみようと思っただけであった。
一方、零の姿に奇妙な反応を示す女性がいる。
「ふう」
リアルブルー出身のお嬢様にして飲食業経営者一族出身のメリエル=ファーリッツが心底うんざりした顔で立派なお胸を揺らす。
女性用水着姿が似合っていてもメリエルの目はごまかせない。
「おととい来やがれですわ……ではなくてちょっと貸してくださいな」
大型の貝を受け取りナイフで不要部を切り取る。そして醤油をベースにしたソースをかけて雫に返す。
つるりと飲み込むと、貝の旨味が数倍に引き出され口から脳に突き抜けた。
「凄いね君!」
満面の笑みを浮かべる美人の、男の子、に対しメリエルは慣れた手つきで魚を締めながら切ないため息をつく。
「できれば可愛い娘にそう言って欲しかったですわ」
メリエルさん14歳。根っからの女の子好きである。
「この香り、ワサビと醤油か!」
ハンターが駆けてきて海女(男)と釣り人と料理人の前で急停止する。
使い込まれた防具に得物、鍛え抜かれた戦士の体はハンター以外には見えないけれども彼、淵東 茂はリアルブルーからの転移者でもあった。
「僕にも1つくれ……これ調味料な。使ってくれ」
零はにっこり微笑むと、早速貝を茂に渡す。メリエルも壺を受け取るとソースを茂に差し出した。
サルヴァトーレ・ロッソ以前に漂着した茂は懐かしい味を渡され何度もうなずく。
「うまいなぁ」
ヴォイドにも孤独にも負けない男が、笑いながら一筋の涙をこぼした。
「淵東さん仕事中〜!」
クリムゾンウェスト出身のハンターの少年であるオルフェが遠くから抗議しすぐに仕事に戻る。
「ごめんね。騒がしくして」
オルフェは今、海岸から百メートルほど内陸でリアルブルー出身の民間人に食べられる森の幸を教え込んでいた。みな頭は悪くないのだけど野外経験が絶望的に足りていない。
「ん?」
物音に振り向くオルフェ。がさりと茂みが揺れ、白目を剥いた鹿が現れた。
悲鳴を上げて逃げ散る地球人。その背中を見て頭痛に耐えるオルフェ。その彼の前を獲物を運んできた槍使いハンターであるリアン・カーネイが軽く頭を下げて歩みを進める。
言うまでもなく鹿は仕留め済みで血抜き済み。ついでに山菜も自然を壊さない範囲で集めている。
サバイバルスキルを持つリアンにとってはこの程度は容易だ。体に負担をかけない早足で、バーベキューパーティーが開催される予定の場所を目指す。
会場は遠くからでも分かるほど広い。料理用の机が10以上設置され釜も今あるものだけで20は越えている。
「お肉も野菜もどんどん持ってきて! 暇な人は手伝ってちょうだい!」
辰川 陽子が大声で呼びかける。彼女の料理のため後ろにまとめた赤褐色の髪が大きく揺れた。
それに応じてリアンが鹿を持ち上げる。
「解体の経験はないんだけどね」
7歳の娘を娘を持つ三十路とはとうてい見えない若々しい笑みを浮かべて、陽子は肉切り包丁を構え、皮を剥ぎ内臓を取り骨から肉を外す。
地球のスーパーに並んでいそうな肉になるまで時間はかからなかった。
「お手伝いさせてください」
同じくリアルブルー出身のティーナ・ウェンライトが協力を申し出る。
少し顔色の悪い、夫と娘を失った痛みに耐える気丈な女性だが、全く顔に出さないのは難しかった。
「助かるよ」
陽子は意識してティーナの事情に触れず、おそらくティーナ以上に失ったものの多いリアンは平然とした顔で山菜を渡す。
「ありがとうございます」
ティーナは軽く頭を下げて山菜をあく抜きのため鍋へ持っていく。途中、解体した後の鹿を見て顔を青くするよその子供に気づき、優しく微笑んで連れて行った。
島のあちこちから集められた食材が彼女達の手で料理に変わっていき、腹を空かせた人々が徐々に集まってくる。
「火をつけるぞ―!」
釜から火が上がる。網の上に大量の串が並べられていく。
肉の脂や焼ける甘い香りと新鮮な野菜の香りが重なり合い、あちこちから生唾を飲み込む音が響いた。
ロスヴィータ・ヴェルナーが一生懸命に串を並べいい感じに焼けたものは半回転させていく。
強烈な熱が釜から吹き上がり金の髪を揺らす。
見た目より過酷な労働だ。けれどコロニーからの脱出行で、父親を失うという過酷なストレスにさらされた彼女にとっては、良い気晴らしになっていた。
でも、焼いても焼いても終わらない。
串に刺され適度な味付けをされた肉と野菜が大皿1つにつき50から100積み上げられ、今も皿が増え続けている。
料理担当の数は足りているのに釜が足りないのだ。
「待たせたなぁ!」
分厚い鉄を打ち付ける音が近づいてくる。
しばらくして、ラザラス・フォースター以下サルヴァトーレ・ロッソ整備員有志数名が半円筒状のバーベキューコンロを持って現れた。
「普段の打ち出しに比べればこんなんはお遊びさ」
物資もエネルギーも貴重なので廃棄予定のパーツを金槌で叩いただけの品だけれど、今日いっぱい使うくらいなら問題は無い。
コンロに炭が入れられ火がつけられる。大量の肉と野菜が網の上で焼かれ匂いが広がっていく。
ロスヴィータは最初に焼けた串を皿にとり整備員の元へ運ぶ。
「どうぞ。差し入れです」
「肉だ―っ」
熱烈な歓声が響いた。
「酒が欲しくなるな」
「ロッソに戻ったら仕事だぜ。飲める訳ないだろ」
「俺は白い飯がいいな……って何だこりゃ」
バーベキューではない、炊きたてご飯でもない、しかしそれと同レベルに食欲をそそる匂いが鼻をくすぐる。
「あんたら今から仕事なんだって? だったら俺のパン食っていってくれよ!」
健康的な肌色のエルフ、ハル・シャイナーがにかりと笑う。
いくつかのコンロの上にはいつの間にか鉄板が置かれ、ぷっくり柔らかく膨らんだパンが並べられている。
「うひょー!」
「ありがとよ。パーティ、楽しんでくれよな」
整備員と入れ替わりに、大勢の客がパーティ会場に集まってきていた。
●サルヴァトーレ・ロッソ
戦艦の中は静かだった。
民間人だけでなく非番の軍人の多くもパーティに参加している。
残っているのは艦の機能と安全を保つための最低限の人員のみ。
「あ」
艦内厨房の1つ。乗員の夕食を担当している場所で、栂牟礼 千秋がこぼれた涙に小さな声を上げると、とっさに作業台から離れてハンカチで目元を覆う。
「止まらないよ」
無意識に兄に助けを求めようとして、奥歯を噛みしめ耐える。彼女の兄はMIA(作戦行動中行方不明)だ。再会できる可能性は限りなく0に近い。
千秋がいる区画から50メートル上方で、安藤・レブナント・御治郎は空腹を感じながら空を見上げていた。
日没寸前の色合いが不安定かつ美しい。
「おうふ」
あくびが出る。もっとも周囲に対する警戒は完璧で、近づく気配に気付き振り向いた時には武器に手をかけていた。
「君か」
ほっと息を吐いて手を離す。
「どうだった?」
「CAMは使わせてもらえないみたいです」
近付いて来る佐倉・桜の表情は苦痛に耐えているように見えた。
桜は整備もできるCAMパイロットで、宇宙航行中は最も艦に必要な人材の1人のはずだった。
「大気圏内仕様へ変更する余裕も、そもそも燃料も足りないですから」
地球あるいはその周辺宙域に戻るまで、彼女のCAM関連技能を活かせる場はないかもしれない。戻れるかどうかも分からない。
「誰かの命を護り続けたあの子たちがこのまま朽ちてしまうのは可哀想です」
「死を忘れず生きよ、だな。人であっても機体であっても」
御治郎は照れたようにこほんと咳払い。意識して軽薄な笑みを浮かべて警備に引き継ぎを行った。
そんな映画の1シーンに似た光景が展開されている右舷の反対側で、杜郷 零嗣がガラス玉じみた虚ろな目でつぶやいていた。
「異世界じゃなくて死後の世界じゃないかな」
不気味に微笑み、さらに何事かを小声で呟く。
「ぶつぶつ……はい教官。幸福は俺の義務です」
頭の中で恩師の激励がリピートしていなければ、海面に飛び込むまでもなく精神的に死んでいたかもしれない。
「あんたも仕事かい」
わざと足音を立てて伊出陸雄がやって来る。
「セキュリティ違反だ! ZAP! ZAP……」
空しくなって途中で止める零嗣。そんな彼の気持ちが解るのか、陸雄は無視して優しく語りかける
「色々あったよな」
足を止め、水平線に消える太陽を見送る陸雄。
「最後の一人になっても、生きている限り戦い続けろ。隊長はそう言ってた。だから、戦い続けるさ。分隊も俺一人になっちまったしな」
大きく息を吸って吐く。
吐き終えたときには、弱気は完全に消えていた。
「俺も気分を切り替えなきゃなんだろうけど」
零嗣がため息をつく。
「今日明日に事態が急変する訳でもないだろ。自分のペースでやりゃぁいいさ」
男2人が別々の方向へ歩き出した頃、島から近づくボートが銃のスコープで捉えられていた。
そのスコープを除く神楽坂 凜が伏射の姿勢のまま端末を取り出し単文を入力する。
現地人2名と民間人2名がボートで接近中。武装無し。バーベキューの会場からの差し入れの可能性高。
返信は凄まじく早かった。
どうやら艦橋でも確認していたようで、余裕のある部署なら出迎えに行っていいらしい。皆極度のストレスから解放され娯楽に飢えているようだ。
「まったく」
監視を放り出す訳にはいかない。
凜は完璧に気配を消したまま、サルヴァトーレ・ロッソの甲板から島の監視を継続するのだった。
●パーティ!
肉に火が通れば祭りの始まりだ。
街や艦から持ち込まれたアルコールの封が開けられ飲み食いが始まる。
ヴォイド相手に肩を並べて戦った者、直接相対することで互いが人間であることを実感した者、他様々に交流を持った者達がより繋がりを深めていく。
「皆様お待たせしました」
金髪碧眼のオペラ歌手体型な女性が高らかに歌う。
「これよりリアルブルー、クリムゾンウェスト料理食べ比べ大食い大会を開始いたします。お残しは即失格ですので節度をもって参加してくださいね」
アメルザ=エディエットが愛嬌たっぷりにウィンク。
出身と性別を問わず喜びの歓声が響いた。
なにせ体力に優れた軍人やハンターが多い。今は並みの大食い大会など軽々と食い尽くしてしまうほど食欲旺盛だ。
「さあさあ、この機会によく見ておくのだよ。これは王国田舎の料理。香草で包んで焼いた魚は非常に風味豊かで美味しいのだぞ! 遠慮せずどんどん食べてくれたまえ!」
得意の薀蓄話を披露するクリムゾンウェスト人ハロルディン=ホープ。
しかしまともに聞いているのは一部の料理人だけで、ほとんどの大食い大会参加者は単純すぎる味付けの魚を骨ごと食って完食し次の料理に移る。
「キノコを料理するときは気をつけるのだぞ。食べてはならんものが紛れ込んでいることが……」
なおも続けるハロルディンに、ほうほうと興味深げにうなずくのはアメルザくらいだった。
「おじさん、ありがと〜♪ これパパとママの分のお礼っ」
リアルブルーのお子様、泉 染鞠が両手にそれぞれ特大串を持って倍近い身長の軍人に差し出す。
「おじっ……」
実は10代の男が心に深い傷を負う。ロッソは国際色豊かなのでこういう勘違いもよく起きる。
「……あ、ありがとな。今度は親御さん達とはぐれるんじゃないぞ」
「うん!」
頭を下げる両親に挟まれ、泉は輝くような笑みを浮かべていた。
「おらぁ、この箸捌きについてこれるか!?」
アーサー・ホーガンが近くのテーブルの皿を空にして隣のテーブルへ侵攻。
「なんのなんの。技無しで勝てると思ったか!」
熟練らしいハンターが応戦する。鍛えた技と力と術のぶつかり合いは見ていて楽しくどんどん観客が集まってくる。まあやってるのは肉の取り合いなのだけれども。
「てめぇ、そりゃ俺の肉だぜ!」
アーサーは健康な白い歯で分厚い鹿肉を食いちぎり次の皿に手を伸ばした。
パーティ会場では大食い大会以外も開催されている。
ロッソから運び込まれた甘味が数テーブルに並べられ女性陣の目を楽しませている。
「あれも、コレも……あう〜迷うのですよ♪」
エルフ耳を幸せそうに上下させているのはティオ・バルバディージョ。
個数制限はないとはいえ乙女的に自主制限するしかない。ハンター業で消費しきれないと体についちゃうし。
イチゴショートを小皿にとってもらって席に着く。
「あそこにはもっとあるのかなぁ」
翡翠色の瞳のきらきら輝かせ、白と赤の宝石と戦艦を何度も見比べていた。
その戦艦の中ではパーティ会場に負けない歓声がうまれていた。
「おしごと中ごめんなさい、お兄さんもお姉さんもチョコートどうぞなのですよ」
クリムゾンウェストの少女、エミリア・チョコレートが大きなお盆を運んできた。
厚めのマグに入っているのはだいたい彼女お手製のホットチョコレート。
10になったばかりの彼女が一生懸命運んでいる様子はとても愛らしくて、勤務中なのに表情を緩めてしまう男女が続出していた。
「焼きたてをお持ちしました」
地球出身者の御桜 茜が身分証と大きなお盆を提示する。
串に刺さった肉からは甘そうな油が滲み、タレと絡まることでとんでもなく食欲をそそる。量も兵士十数人が腹一杯食えるだけある。
「有り難う」
「連絡したから勤務明けの連中がすぐに来るよ」
「うまそうだよなぁ。でも俺等の勤務明けまで残ってないよな」
とほほと残念そうな顔になる軍人達の耳に、可愛らしい腹の音が届いた。
茜はそっと視線をそらす。
夢中になって用意した結果、自分で食べるのをすっかり忘れていた。
「すみませ〜ん!」
妙な空気を元気な声が吹き飛ばす。
「見学いいですか? こっち行っていいですか?」
好奇心で目をぎらつかせたエルフのマリアンデールが、恐るべき押しの強さで外から入ってくる。
兵士が止めれば素直に止まり、歩みが止まった分勢いを増して質問が連射された。
サルヴァトーレ・ロッソの建造方法に維持手段、運用の仕方から対ヴォイド戦での有用性など、兵士が口にできる範囲で答えても止まらない。
「肝心なことはトマーゾ・アルキミア教授じゃないと分からないと思うぜ」
追加の差し入れを持って来た八島 陽が口を挟む。
工学系を学ぶ学生なのでこの艦がどれだけ飛び抜けた存在なのか嫌というほど分かっている。
「どこに?」
マッドな気配をまき散らすマリアンデール。
「僕も知りたいよ。ほんとにどこにいるのだか」
陽は携帯端末で夜の空を再生して、溜息をつく。地球で撮った空と、今日撮った空は違いすぎていたから。
パーティ会場やパーティ会場と同じくらい賑やかなところはいくつもある。
もっとも、そうでない場所も数多くある。
ロッソの居住区もその1つだ。
「僕なんかが生き残って良かったのかな?」
上村 晃樹は待合室のソファーに腰掛けペンダントをいじっていた。本来の持ち主は既にこの世にいない。
「なんて言ったら怒りそうだよね、姉さんは」
壁に埋め込まれたディスプレイには、艦の外の景色が映し出されている。
「この場所なら、このクリムゾンウェストでなら……見つかるのかな? 僕の生きる意味が……」
まだ、立ち上がる気力はなかった。
見回りに来た白藤は、晃樹の姿を見て自分もネックレスを強く握っていたことに気づく。
手を広げると、血の気が引き十字型の痣がついた掌が見えた。
「帰れるんやろか、元の……世界に」
しく、しくと、心が削れる押し殺した泣き声が聞こえる。
その声を聞いたおかげで、自分まで泣きそうになった白藤だったが、彼女は強く奥歯を噛んで泣き言を喉の奥へ押し込め、泣き声を頼りに廊下を歩く。
人気のない居住区の隅で、血のついたアルバムを抱え込んだロン=マドックが泣いていた。
ハレの席に持っていく訳にもいかず、かといって一時でも手放すことはできず、この場に止まっているのだろう。
「坊や、暖かくしとかんといかんよ」
一度戻って毛布を運びロンの肩にかける。
「あり、がとう」
痛々しく笑みを浮かべた少年に、白藤は気にするなと言い残して巡回を再開した。
●明日へ向かって
大量に調達された肉は既に半分を切っている。
腹がくちくなった、体力の有り余った若者が集まればすることは1つ。
腕比べだ。
ミズホ・A・Hの拳が夜の空気を切り裂いた。
地球でのボクシングに近い一撃は桜澤 奈緒の頬を掠め、糸のように細い傷から艶めかしい赤が垂れた。
「ふっ」
今度は奈緒の番だ。視線と腕を使ったフェイントからの蹴りが飛ぶ。
地球の対人格闘会で練り上げられた技は、初見のミズホでは回避しきれない。
両手を十字にして蹴りを受け止める。両腕の骨がきしみ、肩が悲鳴をあげた。
「やるわね」
「あなたこそ」
地球のお嬢様と異世界のエルフが淑やかに笑う。
奈緒はとっておきを繰り出そうとして、気づく。
「どうしてやりあってたのかしら」
奈緒が喧嘩を仲裁する、喧嘩を聞きつけたミズホが乱入する、もともと喧嘩していた連中が逃げ出し奈緒が応戦してご覧の有様だ。
「相互理解のためですわ」
ミズホはおほほとごまかしていた。
「悪い人では無いことはよくわかりましたわ」
2人は堅い握手を交わし、いきなりしゃがみこむ。
直前まで2人の頭があった場所を竹とんぼが貫通した。
「うおぉぉぉっ!」
「俺の、勝ちだぁっ!」
童心に返って白熱するハンターが十数名、最低でも20代後半の野郎共が火を興す勢いで地球製玩具を回転させている。
「そこの方、大人げないことはしないでくださいな」
魔宮 真夜が笑顔で見下ろす。
怯えた民間人の子供達が、彼女の背後から恐る恐る顔を出していた。
「すみません」
「お、おう」
歴戦のハンターは心底びびって恭しく玩具を差し出し、真夜が呆れの吐息と共に許しを与えた。
「ガキ共! 楽しいからって独占なんて小さい真似するなよ。ほらっ」
魔宮 御影がケンケンパで、お手玉で、そして竹とんぼで子供の注意を引きつけ一緒に走り回る。
内気な子供が興味を示したときには相手が怯えない絶妙な距離で巻き込んで、姉が始めた両世界友好の輪を子供限定ながら、急速に広げていく。
ユーリアス・ラ・ムーナも輪に加わった1人だ。
ツインテと触覚風前髪を揺らしながら、機導師らしい器用さでお手玉を4つ回しながら駆け、つまずいた。
「きゃっ」
宙で一回転して着地に成功する。
が、お手玉は闇の中に消えかかり、誰かが運んでいたお盆に載って止まった。
小柄なユーリアスより頭半分は低い桜憐 りりかが、お盆の上のお手玉を不思議そうに見つめ、こてんと首をかしげた。
「ごめんごめん」
ボクエルフだよ〜と尖った耳を動かす。
りりかは何度も瞬きを繰り返し、そっとお盆を差し出した。
「どうぞなの…」
ひたすら分厚い肉が3切れ、盛大に湯気をたてている。
残念ながら箸も串もない。集めた食材が多すぎて尽きたらしかった。
どうしようか悩む2人の横を、クラヴィ・グレイディが通る。
「一時はどうなるかと思ったけどどうにかなるもんだね〜」
今後どうなるにせよ、宇宙の藻屑やヴォイドに為す術無くやられる未来だけはない。今回の騒動で確信したクラディが鼻歌交じりで行きすぎ……る前に魅惑の肉に気付く。
要領よく確保していた割り箸を2人に渡して1切れずつ分け合い、ごほんと咳払いしてから音頭をとる。
「いつか帰る時の為にも元気で無いとダメであります! なのでまずは」
くわっと目を見開き肉を掲げ。
「食べるでありますよー!!」
「はい」
りりかの脳裏に、前線で戦っている兄の事がよぎった。 (兄さま、どうか無事でいて欲しいの……)
だが、今はクラヴィの言う通り、元気で無いといけないのだ。そう自分に言い聞かせ彼女は目の前の肉に集中。
「わーい!」
一方、ユーリアスはすっかりこの状況を楽しんでいる。
異なる世界の少女達が、元気よくお行儀よく焼き肉を食べる。
とても甘くて、少しだけ大人の味がした。
3人が再会を約してそれぞれの場所に戻っても宴は続き。
「げ、もう朝かよ」
「目が痛い〜」
肉を食い尽くし、酒を飲み尽くし、朝日に照らされた地球人とハンターはあくびをしながら片付けを行い、3人と同じように再会を約して帰路につくのだった。
執筆:馬車猪/監修:稲田和夫/文責:フロンティアワークス