父が手を強く引いた。村の門扉は近い。田畑を荒らす害獣除けの柵だが、数年前、野犬の群れが襲ったこともあり、その高さは大人の男の背丈をも超える。ここを乗り切って森の中に逃げ込めば、柵を越える跳躍力でもない限り、追いかけては来られないだろう。振り向いた父が、不意に彼女の手をつかみ上げ、放り投げるようにして、柵の外へと押し出した。
「逃げろ！　決して振り向くな！　走れ！」
　背中が見えた。
「早くいけ！」
　後ろ手に、重い扉が閉まる。
「おと……」
　言葉は途中で消え、ドン、という衝撃が扉に加わった瞬間、足を震わせながらも走っていた。息が切れる。背中に断末魔の叫びが聞こえた。
　あれは父の声だ、声を出している、まだ生きている、今振り返れば、でももう間に合わない、せめて一緒に死んでしまいたい、それでも、生きながらに食い散らかされるのは怖い、怖い、怖い、怖い。
　走った。手も足も、重さで切り落としてしまいたいほど、喉からは鉄の味がした。
　そうしてやっと森を抜けたころに、ようやく気付いたのだ。
　自分は父親を見捨てて逃げて生き残ったのだ。父親だけではない。村の人間、あの時点ではどこまで生きていたかは分からないが、扉を閉ざさなければ逃げ切れた人もいただろう。犠牲にした。こんなちっぽけな、自分のために。
　手の中にわずかばかりの財産があった。逃げるときに、父が自分に持たせた全財産だ。
　胸に抱きこんで、少し泣いた。最初から、父はこうするつもりだった。自分を助けて、犠牲になるつもりだったのだ。
『ターニャ』
　父の呼ぶ声を、必死に耳に呼び戻そうと目をつぶる。もう、誰もいない。自分を知る人間は、これでも誰もいなくなった。
「敵、討つからね」
　呟いた。それは免罪符のようであり、死者と交わした約束だった。
　歩く。ハンター、あの、歪虚と呼ばれる異形の者たちを暗に狩るものたち。町にたどり着けば、彼らにつながる何かがあるだろう。そして晴れて復讐が果たされたとき、
「その時はもう一度、笑って会えるよね」
　頬を生暖かく伝った。涙など、自分には許されない。

　その日、ハンターオフィスに常駐するクリス・バレイは、ぼろきれのような少女がふらふらと歩いて来るのを目にして、思わず拭き掃除の手を止めた。
　長い距離を歩いてきたのか、獣の皮を縫っただけの簡素な靴は破け、足の血豆が潰れでもしたのか、どす黒い血で染まっていた。
　民族衣装を着ていることから、どこか地方からの逗留者と見受けられたが、十代前半とみられる少女が町中を浮浪児のような出で立ちで歩くなど正気の沙汰ではない。
　少女はハンターオフィスのサインを認めると、ふらふらとへたり込んだ。慌てて駆け寄り、痩せた体を抱き起す。汗にまみれた顔を、何度も腕で拭ったのだろう。泥を刷いたような頬を叩くと、薄く瞼を開け、目玉だけを動かしてクリスを見た。
「ハンターオフィスって、ここ？」
「そうよ」
「あなた、ハンター？」
　弱々しいが、期待に満ちた声色だった。
「違うわ。ここの職員。ハンターに用事？」
　クリスが尋ねると、
「お願い、私の村、みんな、死んだ。もう、誰もいない。お願い、敵を討って、お願い」
　そう言うと、ふっと意識を失って、崩れ落ちた。

「彼女の名はターニャ。彼女の村は、北の山間に位置していて、この数百年間、他の地域の住民とはほとんど交流がなかった、特殊な村ね。かれらは、野犬の襲撃に備え、村中を男の背丈よりも高い丸太の柵で囲っていたんだけれど、先日、門を開けて行商人を通したところ、青い炎をまとった狼のような化け物が侵入。大型の狼のような姿だけれど、毛皮の代わりに青い炎をまとっている。討伐対象はこの一体。でも、ひとたび噛みつかれると、生命力を吸い取る力がある。接近戦は難しいわね。生命力を一定数吸い取ると、炎は赤く変化し、触れたものすべてを焼き尽くす。彼女の父親が門を内側から塞いだというけど、この木製の柵がまだ燃えずに残っているかどうかは、現地に行ってみないと分からないわ。彼女はとにかく、村のみんなの敵を討ちたいと願ってる。どうかしら。この依頼、受けてもらえる？」

　ハンターオフィスにて、クリスに右肘を支えられながら現れた少女は、大きな目を異様に見開いて、
「あなたたちが、敵を、取ってくれるの」
　ありがとう、そう呟いて笑顔を作ろうと口元を歪めたが、うまくいかず、不自然にひきつった表情を浮かべた。
　パトリシア＝K＝ポラリス(ka5996)は、一度ぎゅっと唇をかみしめ、一歩前に踏み出すと、背を屈めて彼女と目線を合わせ、
「うん、パティは、ハンターダカラ」
　汗と埃で額にはりついた彼女の前髪を、指先でそっと払った。
「ターニャハ、待ッテル間、ちゃんと、ごはんを食べテ、お風呂に入っテ、ね」
　パトリシアの言葉に、彼女は瞬きをして彼らを見渡した。その表情は、いま目が覚めたばかりのように、年相応にあどけなかった。
　ミュオ(ka1308)は何も言わず、目が合うと小さく頷いた。時音　ざくろ(ka1250)が、両拳を固く握り締め、大きく首を縦に振って応える。
　ディーナ　ウォロノフ(ka6530)は、言葉を探すように少し視線をさまよわせると、笑顔を浮かべて軽く会釈した。
　鳳城　錬介(ka6053)だけは警戒した表情を浮かべ、恰も観察するように、彼女を見つめている。
「ターニャ、村のコト、聞イテモいい？」
　卓上にパトリシアの用意した地図が広げられ、作戦会議が始まった。

「オフィスを出るとき、クリスさんと何話してたんですか」
　村への道中、ディーナは隣に並んだ錬介を見上げて尋ねた。身長差で、視線を合わせ続けようとすると首が痛い。錬介は丁寧な口調で、
「留守中、ターニャのことを頼んでいただけですよ。大したことではありません」
　そう言うと、少し表情を引き締めた。
　彼らが現在辿っているのは、ターニャが一心に駆けた森の中だ。周囲は背の高い針葉樹に囲まれており、木々の狭間から僅かに見える空はどんよりと暗く、湿った空気は陰惨で不気味である。道と呼べるほどのものはなく、方向感覚が狂いそうなくらいに似通った景色は、地図を手にしていても迷い込みそうだ。
「生き残りトカ、ダイジな人が亡くなルトカ、パティは知らないんダヨ。デモ、パティにできるコトがあるナラ」
　パトリシアは一瞬俯くと、翡翠色の瞳を空に向けた。
　奇しくも今回の依頼は十代の彼らが集まった。ターニャとは年も近い。
「余計なことを考えるのはやめましょう。でないと、きっと辛くなってしまうから」
　ミュオは、超重刀を肩に担ぎなおすと、前に向き直って歩調を心なし速めた。超重刀は長さとしては一般的だが、ドワーフの中でも極めて華奢なミュオが帯刀すると、身の丈に匹敵する大剣に見える。
「ターニャの気持を考えると、とにかく今は敵を討ってあげたい、それに、そんな危険な怪物を放ってなんておけないもん！」
　少女めいた顔を紅潮させて、ざくろが言い放つ。
「そう、まずは敵討ちを頑張りましょうか」
　錬介がおどけたように言って、彼らは先を急ぐ。

　道を進むにつれて、ひんやりした風に交じって、焦げ臭いにおいが漂ってきた。最も恐れるべきは延焼による山火事である。彼らの間に緊張が走る。
「狼は、村の中にいるんですよね」
　ディーナが空を見上げてつぶやく。煙は見られない。最悪なのは村に生き残りがいたとして、彼らの生命が奪われていることだ。
「急いだほうがいいかもしれませんね」
　各自、表情を引き締めて走り出す。程なくして、丸太の簡素な柵で囲まれた村の入り口が姿を現した。村の周囲は彼らが考えていたよりも整然としており、柵も前面から見た限りさしたる破損もなく、静かに時を止めていた。ただ、物の燃えた後の不快な匂いが強烈に漂っており、それだけが内部の惨状を伝えていた。生物の気配はない。
　パトリシアの提案で柵の外を一周して、異変がないかを確認する。一見したところ、さしたる変化はなく、柵は堅牢だった。
「まずは中に侵入しましょうか。俺が踏み台になります」
　長身の錬介が言って、土に膝をついた。
「その前ニ、加護符をぺたぺたスルね！」
　加護符で狼の襲撃に備え、銘々恐縮しながら、錬介を踏み台に、柵を乗り越える。向こうにわたったパトリシアの口から小さく悲鳴が上がった。
「こんなの……ヒドイ、ヨ……怖かった、ヨネ……」
　ミュオが入り口の閂を外し、錬介を招き入れる。
　柵の内側にいると思われたターニャの父親の姿は、そこにはなかった。では、重傷を負いながらも逃げおおせたのだろうか。村の中に生者の気配はない。柵の内側からは石造りの道がのびており、かつては通りに向かって木造の家が林立していたのだろう。今はその家々も黒く炭化しており、崩れ果て、無残な姿をさらすのみである。
　道の真ん中に、おそらくは男性だろう。手も足も折れ曲がった状態で、全身炭化して倒れている。娘が走ったように、彼もまた最後の力で走り切ったのだろう。娘を逃がすために、自身から立ち上る炎から、娘を守るために。
　しかし、今は弔いのときではない。
「酷い……村のあちこちで殺された人達が、ざくろ、絶対に許せない」
　村の惨状を見るにつれて、ざくろの表情が怒りでひきつっていく。石畳の広場には、井戸があり、そこでは水を求めた人々が折り重なるようにして最期を迎えていた。
「さぁ、ざくろ達はここに居るぞ、姿を現せ！」
　ホーリーメイスを手に叫ぶ。長剣の切っ先が、ざくろの怒りを表すかのようにぎらりと光った。
　石畳のこの場所は燃えるものもなく、戦闘に適しているが、あまりに遺体の数が多い。
「待って！　戦うのは、皆の亡骸をなるべく傷付けないバショにシテ！」
　パトリシアが制するが、瞬間、唸り声とともに、急速に近づいてくる獣の足音が聞こえてきた。
「来るぞ！」
　一同に緊張が走る。陣形を整えるが、足音だけでは、どこから来るのか判断ができない。
　猟撃士であるディーナは、大回りしてスナイピングポイントとなる高台を探した。広場から離れた場所に、見張り台がある。木を組んだだけの簡素な作りだが、燃えていない。梯子を上った。野生狼の襲撃に備えたものだろうが、十分な高さだ。木板の上に腹ばいになり、魔導銃『狂乱せしアルコル』を構え、襲撃に備える。
　狼の動きは素早く、大きな影が一瞬にして声を発したざくろの前に現れる。青い炎が揺らめいている。低く唸ると、牙をむき、前足で押さえつけるようにしてのしかかってきた。
「ホーリーヴェール」
　錬介が光の壁を作り出す。牙が接触した瞬間、障壁は燐光を放ちながら消滅した。しかし、敏捷な狼はなおも襲い掛かってくる。
「超機導パワーオン、弾けとべっ！」
　ざくろの放った攻性防壁が雷を纏い、接触した歪虚を弾き飛ばした。すかさず、パトリシアが地縛符で結界を展開する。陰陽符が赤い光を放った。
「五色光符陣！」
　強い光が辺りを包み、攻撃を加えながら目を眩ませる。
　歪虚がひるんだ隙をディーナは見逃さなかった。グリップを肩に押し付け、エイミングで命中率を補正、スコープの中に敵を捕らえた。まずは、動きの起点。
「足一本……いただきますっ！」
　トリガーを引く瞬間は目を閉じてしまう。このままではいけないと分かってはいるけれど。
　弾道はわずかに逸れて爪先を弾き飛ばす。
　犬の鳴き声のような高い悲鳴が響いて、唇をかみしめた。動きは鈍っている。連続で二発目を発射した。
　次は足を貫く。クイックリロード。頭部に狙いを定めた。
　巨大な狼は片足を軸にして地を蹴り、一番体格の小さいミュオに襲い掛かった。超重刀を薙いで顎に切りかかる。炎が形を成したような、複雑な形状の剣である。その攻撃は、斬撃というよりも重い打撃に近かった。
「これでも……噛んでいてください！」
　棘のような刀の突起が、牙を捕らえた。口の端を斬り抜ける。しかし、かみしめる力に押し負け、牙が僅かにミュオの鎧に触れた。錬介が慌ててホーリーヴェールを唱える。　
「お前が炎ならざくろは氷だ……全てを凍てつかせろ万能機導の力、急速冷凍フリージングレイ！」　
　氷の柱が襲い掛かり、青い炎を凍りつかせる。
　動きを止めたその頭を、ディーナの弾丸が貫いた。
　咆哮が轟く。
「これは亡くなった村人さん達と、ターニャの心の痛みの分だ……全てを断て光の剣！」
　ざくろの手の中に光の剣が現れる。頭上に掲げ、一刀両断にその体を切り裂いた。　
　焼き尽くされた村の土に、触れると同時に淡く消えていく。あとには、何も言わなくなった死者たちが声なく横たわっている。
「弔いましょう。村の人を」
　ミュオが静かに言って、井戸のそばで力尽きている幼い亡骸を抱き上げた。

　遺骸は村の外れに、彼らの祖先と並んで葬られた。日暮れまでかかり、やっと、すべての埋葬が終わった。ミュオは森の中で摘んできた花を、そっと墓標の前に添えた。白い花は、乾いた土の上で、まばゆいほどに美しく咲き誇っている。やがて萎れるときまで、この花は死者たちを癒すだろうか。ミュオは静かに目を閉じた。
「ターニャの家って、広場からまっすぐいった道の、突き当りでしたよね」
　ディーナが村を振り返り、指で家を探す。
「そう言えば、ディーナさん、ターニャに家の場所を尋ねていましたね」
　錬介が頭二つ高い位置から家の所在を確認した。赤い屋根の家が残っている。
「ターニャに遺品、渡してあげたいなって。生き残っている人がいればよかったんですけど、無理みたいだから」
　風が吹き、花びらを優しく揺らした。

　ターニャの家は家人らが早々に家を出たことと、周囲の家と離れていたことが幸いしたのだろう。燃えることなく、きちんと残っていた。
「お邪魔しまーす」
　躊躇いながら扉を開ける。入り口正面に窓があり、信心深い家だったのだろう。赤い絨毯が目に鮮やかに飛び込んでくる。奥の暖炉には神の像と、隣には、金の指輪が置かれていた。ディーナは手にとって、自分の指と比較してみる。大きさから言って女性のもので、代々受け継がれてきたものと見える。流行り病で亡くなったというターニャの母親のものではないかと思われた。獣の足跡があり、通りに面した窓が内側に破片を散らして割れていた。きっと、歪虚の急襲で、この部屋に入ることができず、持って逃げることができなかったのだろう。
　ターニャ一人でこの村に戻ることはきっとできない。ディーナはフードを外すと、指輪を手に取った。この指輪のように、ターニャに受け継がれていくものがあればいい。彼女の中に思い出として残るものが。そう願って。

　歪虚討伐の顛末を聞いたターニャは、安心したように弱々しく笑った。
「ありがとう」
　ディーナから指輪を受け取ると、一瞬視線をさまよわせ、すこし今の彼女には大きいそれをぶかぶかのまま薬指にはめて、礼を言った。迷いが生じた、そんな表情だった。
　やがて決意したかのように、報酬といって金品の全てをクリスに渡し、急かされるようにオフィスを後にした。
　朝焼けの眩しさに目を焼かれるかのように、片腕で日の光を遮り、町の外まで歩いていく。無意識なのか、薬指にはめた指輪を隠すように手の中に握りこんでいた。
「今会いに行くよ。今、みんなのところに行くからね」
　呻くように言った。生きていけないと思った。外の世界なんか知らないし、こんな子供が、一人でどうやって生きていけばいいだろう。それに、何より自分はよくない子供だ。生きる資格なんかないと思った。
「捨てるのですか。お父さんの願いを」
　背中から、声がかかった。錬介だった。当初から、自害するのではないかという危惧を抱いていた。目を離さずにいたことが功を奏した。
「敵を討ってほしいからじゃない。生きてほしいからお父さんは君を救ったんです」
　そして、父の最期の様子を静かに告げた。
「君の命はもう君だけのものじゃない。お父さんの命もそこにある。君が想うのなら、村の人の命も」
「でも、もう誰もいないもの。私を知っている人も、私が知っている人も」
　抑え込んでいた気持ちを爆発させるように、ターニャは大声で泣き叫んだ。
　ありがとう、でもさびしい。ありがとう、でも苦しい。まだずっと、かなしい。
　パトリシアが、おずおずと続けた。
「ターニャにお話するコト、今のパティにはないケド……パパさんが助けてくれたイノチ、ダイジにしてほしーんダヨ」
　ディーナが、言いづらそうな表情を浮かべながらも口を開く。
「きっとね、仲良く笑顔で接してくれる人は、あたしを含めたくさんいるのですよ」
　そう言うと、元気づけるように笑顔を浮かべた。
「僕も、ささやかな幸せを願っています」
　ミュオが少し切なげな表情で、ターニャをのぞき込む。勿忘草の髪飾りが僅かに揺れた。
「死者に価値を与えるのは、いつだって生者ですよ」
　錬介がしゃがみこんだターニャに手を差し伸べる。
「一人では不安なら一緒に考えましょう。俺は君を知りました。知った以上絶対に死なせませんし見捨てませんからね。面倒な人に会ったと早々に諦める事をお勧めします」
　そう言うと、にっこりと食えない笑顔を浮かべた。
　戸惑いながらも、差し出された手を取る。よろよろと立ち上がり、促されて、5人に囲まれ、町へと戻っていく。その足は傷だらけで、足取りはまだおぼつかない。それでも、前に進んでいく。いつか、今流れている涙も乾くだろう。その時まで、まだ振り返るときではないのだ。