ゲスト
(ka0000)
熱情は指針を失い
マスター:サトー
オープニング
愛用の木槌を失った。
思えばそれが、全てだったのだろう。
無骨な父の背を見て育った。
一心不乱に木槌を振るう父の背は、大きく、頑強で。戦々恐々としながらも、目を離すことはできなかった。
それはいつしか憧れに変わり、目標へ転じ、気の移ろいを経て、自らも父と同じ船大工の道を歩むこととなる。
妻と出会い、息子が生まれ。幼き頃の己のように、俺の背中を見て大きくなった息子も、その内船大工の道に進むのだろうと漠然と考えていた。海商になると言い出すまでは。
残念だった。己の跡を継いでもらいたいという人並みな心が芽吹くのを感じた。
けれど、続いて息子が紡いだ言葉が、それを根っこから吹き飛ばした。
「親父の造った船に乗るんだ」
知らず笑みが零れた。照れと生意気なという想いを込めて、少し苦ったらしく。
それもいいだろう、と自然に思えた。
ある時、息子から木槌のプレゼントを貰った。
初めての稼ぎで購入したという、柄の部分に妻の顔の意匠が凝らされたそれ。既にこの世を旅立った妻の若かりし頃の顔。
「浮気しないように」と冗談めかした息子に背を向けて、静かに涙を流したのは内緒だ。
新調された木槌を手に、のめり込む仕事。何も不足は無かった。
一年前、それを失うまでは――。
工具係の能無しが、手入れに預けた鍛冶師の所から帰る途中、市場の雑踏で紛失してしまった。
酷く怒りはしたが、無くしてしまったものは仕方がない。息子が帰ってきたら謝ろうと思っていた。
が――息子は帰らなかった。
いつものように海に出て、いつものように俺の造った船に乗って、いつものように甲板から手を振って、空の彼方へ消え去った。
暫くして、息子の船が嵐に呑まれたと伝え聞いた。それでお終いだ。
それで、全て、おしまいだ。
俺の手は寂しがりやな潮風のせいで、どどめ色に錆びついてしまった。
●同盟の都市ヴァリオスのとある酒場
「あなたが、ティモンさんで?」
昼間から酒を呷っていたティモンが杯を止める。
無造作に生えた顎鬚、赤らんだ頬、皺に沈んだ生気、落ち窪んだ目、ぼさぼさの頭。
寝覚めに嫌な話を聞かされたかのように血走った瞳が男を睨み、ゲップを一つ。つーんと漂う酒の臭いに、話しかけた男は顔を顰めた。
「……なんだ?」
「私は、ビリーと申します。海商を営んでいる者で」
海商、という言葉に、ティモンの眉がぴくりと動く。
「実は私の船が座礁してしまいまして。修理して頂けないかと」
「他を当たれ」
そっけなく背を向けるティモンに、ビリーは諦めず声をかける。
「それが……他はどこも手一杯らしくて。貴方なら空いていると紹介されたのです」
言いながらも、ビリーはなぜ紹介者が苦笑交じりに話したのか理由を悟っていた。目の前の男は、明らかに使い物にならない。
「知らん」
ティモンは席を立ち、酒場を去っていく。
ビリーは己の不幸を呪った。
「……何が幸運の女神だ」
「大変そうだな」
独り言に応じる声。先ほどティモンが座っていた席の隣の男が、面白そうにこちらを眺めていた。
肉厚な胸板に擦り切れた拳、精悍な面持ちに狂気を孕んだような双眸が印象的な男だ。
「けど、おやっさんは無理だと思うぞ」
「……他に人がいません」
男はふぅと一息吐くと、ティモンの事情を簡単に説明してやった。
それを聞いたビリーはやはり、己の運命を罵倒した。
幸運の女神――、ビリーはそれをそう呼んでいた。
一年ほど前、積荷に紛れていたそれを見つけてからというもの、仕事はすいすいと捗るようになった。
操舵輪に結わえつけて、出航する度に願いを捧げれば、トラブルも無く、何もかも順調で、このまま大海商になれるとさえ思ったほどに。
それが……座礁により、積荷を全て失った。イベント用に大量受注したイチゴの賠償は保険屋のお陰で難を逃れたが、船底に深い傷を負った船は未だ座礁したまま。早く引き上げなければ、劣化は更に進むだろう。なのに……。
幸運の女神と崇めてきた今までの自分が馬鹿だった。あんなもの、船の引き揚げが済めばすぐにでも海に投げ捨ててやると決意を滲ませながら、ビリーは男に向かい合う。
「どうにかなりませんか?」
ビリーの懇願に、中年の男はため息を吐く。
「……ハンターにでも依頼しな。おやっさんには俺から口添えしてやるよ」
「本当ですか!?」
「勘違いするな。俺ができるのは場を用意するだけだ。……こういうのには、時間が必要なんだけどな」
何かの縁だと、男は席を立った。
●
海を眺める男がいる。
まだ歳若い男。彼は日がな一日海を眺める。来る日も来る日も、日が昇り日が落ちるまで。
エネル、それが男の名。またの名を『能無し』と言う。
彼が砂浜に佇むようになって、もうすぐ一年になる。
勤め先の工房の頭が、仕事を放棄してからだ。
一人息子を失った頭の想いは、エネルにはよく理解できた。何せ、亡くなった息子はエネルの親友だったのだから。
もっとも、付き合いには限度がある。
いつまで経っても立ち直らない頭に、仲間は皆離れて行った。残りは、自分一人。
エネルが残ったのは義理か? 恩か? 同情からか?
否。彼のあだ名は『能無し』。どこも雇ってくれる処が無かっただけのこと。
使い走り位しか、彼にはできなかった。任された工具の運搬すらもできなかった。頭の大切にしていた木槌の管理すらも……。
エネルは魂を吐き出しそうな大きなため息を吐き、未だ帰らぬ友に背を向けた。
やって来たのは、工房。一月ぶりだ。
彼が来るのは給料の受け取りの為。そう。今でも、何も働いていない今でも、頭は毎月給料をくれる。
最初は有り難かったが、随分前から心苦しさが優っていた。とはいえ、それが無ければ飢えてしまうのも事実。突っ張れない自分が情けなく、地に溶けて消えてしまいたくなる。
大きな鉄の扉を開くと、爽やかな風が鼻腔を抜けていく。
久方ぶりの訪れだというのに、空気は淀んでいない。中を歩き進んでも、埃が立つことは無い。
棚に整然と並べられた工具。一ヶ所だけぽっかりと空いた空間に、心がざわめく。
頭の姿は無かった。どうやら自宅の方のようだ。
気が重い。だが、行かなければならない。
エネルはとぼとぼと、ティモンの自宅へ向かう。
●ティモン宅
欠伸が漏れる。
目の下にできた深い隈。
眠れぬ日々が蝕むのは、募り募った想いの沼。産み落とされるのは、ねじくれてどす黒く変色した遠い記憶の残滓。
居間の棚に飾られた木製の船の模型を手に、ティモンは赤ずんだ瞳を滲ませる。
12になる頃に息子が作った模型。最後に、息子が旅だった船の模型。
――嵐。
運が悪かったのか。そういう運命だったのか。どうしようもなかったのか。
「……違う」
己の造った船が未熟だったから、息子は帰って来れなかったのだ。
ティモンの手が震え、ぽとりぽとりと模型に染みが広がっていく。
思えばそれが、全てだったのだろう。
無骨な父の背を見て育った。
一心不乱に木槌を振るう父の背は、大きく、頑強で。戦々恐々としながらも、目を離すことはできなかった。
それはいつしか憧れに変わり、目標へ転じ、気の移ろいを経て、自らも父と同じ船大工の道を歩むこととなる。
妻と出会い、息子が生まれ。幼き頃の己のように、俺の背中を見て大きくなった息子も、その内船大工の道に進むのだろうと漠然と考えていた。海商になると言い出すまでは。
残念だった。己の跡を継いでもらいたいという人並みな心が芽吹くのを感じた。
けれど、続いて息子が紡いだ言葉が、それを根っこから吹き飛ばした。
「親父の造った船に乗るんだ」
知らず笑みが零れた。照れと生意気なという想いを込めて、少し苦ったらしく。
それもいいだろう、と自然に思えた。
ある時、息子から木槌のプレゼントを貰った。
初めての稼ぎで購入したという、柄の部分に妻の顔の意匠が凝らされたそれ。既にこの世を旅立った妻の若かりし頃の顔。
「浮気しないように」と冗談めかした息子に背を向けて、静かに涙を流したのは内緒だ。
新調された木槌を手に、のめり込む仕事。何も不足は無かった。
一年前、それを失うまでは――。
工具係の能無しが、手入れに預けた鍛冶師の所から帰る途中、市場の雑踏で紛失してしまった。
酷く怒りはしたが、無くしてしまったものは仕方がない。息子が帰ってきたら謝ろうと思っていた。
が――息子は帰らなかった。
いつものように海に出て、いつものように俺の造った船に乗って、いつものように甲板から手を振って、空の彼方へ消え去った。
暫くして、息子の船が嵐に呑まれたと伝え聞いた。それでお終いだ。
それで、全て、おしまいだ。
俺の手は寂しがりやな潮風のせいで、どどめ色に錆びついてしまった。
●同盟の都市ヴァリオスのとある酒場
「あなたが、ティモンさんで?」
昼間から酒を呷っていたティモンが杯を止める。
無造作に生えた顎鬚、赤らんだ頬、皺に沈んだ生気、落ち窪んだ目、ぼさぼさの頭。
寝覚めに嫌な話を聞かされたかのように血走った瞳が男を睨み、ゲップを一つ。つーんと漂う酒の臭いに、話しかけた男は顔を顰めた。
「……なんだ?」
「私は、ビリーと申します。海商を営んでいる者で」
海商、という言葉に、ティモンの眉がぴくりと動く。
「実は私の船が座礁してしまいまして。修理して頂けないかと」
「他を当たれ」
そっけなく背を向けるティモンに、ビリーは諦めず声をかける。
「それが……他はどこも手一杯らしくて。貴方なら空いていると紹介されたのです」
言いながらも、ビリーはなぜ紹介者が苦笑交じりに話したのか理由を悟っていた。目の前の男は、明らかに使い物にならない。
「知らん」
ティモンは席を立ち、酒場を去っていく。
ビリーは己の不幸を呪った。
「……何が幸運の女神だ」
「大変そうだな」
独り言に応じる声。先ほどティモンが座っていた席の隣の男が、面白そうにこちらを眺めていた。
肉厚な胸板に擦り切れた拳、精悍な面持ちに狂気を孕んだような双眸が印象的な男だ。
「けど、おやっさんは無理だと思うぞ」
「……他に人がいません」
男はふぅと一息吐くと、ティモンの事情を簡単に説明してやった。
それを聞いたビリーはやはり、己の運命を罵倒した。
幸運の女神――、ビリーはそれをそう呼んでいた。
一年ほど前、積荷に紛れていたそれを見つけてからというもの、仕事はすいすいと捗るようになった。
操舵輪に結わえつけて、出航する度に願いを捧げれば、トラブルも無く、何もかも順調で、このまま大海商になれるとさえ思ったほどに。
それが……座礁により、積荷を全て失った。イベント用に大量受注したイチゴの賠償は保険屋のお陰で難を逃れたが、船底に深い傷を負った船は未だ座礁したまま。早く引き上げなければ、劣化は更に進むだろう。なのに……。
幸運の女神と崇めてきた今までの自分が馬鹿だった。あんなもの、船の引き揚げが済めばすぐにでも海に投げ捨ててやると決意を滲ませながら、ビリーは男に向かい合う。
「どうにかなりませんか?」
ビリーの懇願に、中年の男はため息を吐く。
「……ハンターにでも依頼しな。おやっさんには俺から口添えしてやるよ」
「本当ですか!?」
「勘違いするな。俺ができるのは場を用意するだけだ。……こういうのには、時間が必要なんだけどな」
何かの縁だと、男は席を立った。
●
海を眺める男がいる。
まだ歳若い男。彼は日がな一日海を眺める。来る日も来る日も、日が昇り日が落ちるまで。
エネル、それが男の名。またの名を『能無し』と言う。
彼が砂浜に佇むようになって、もうすぐ一年になる。
勤め先の工房の頭が、仕事を放棄してからだ。
一人息子を失った頭の想いは、エネルにはよく理解できた。何せ、亡くなった息子はエネルの親友だったのだから。
もっとも、付き合いには限度がある。
いつまで経っても立ち直らない頭に、仲間は皆離れて行った。残りは、自分一人。
エネルが残ったのは義理か? 恩か? 同情からか?
否。彼のあだ名は『能無し』。どこも雇ってくれる処が無かっただけのこと。
使い走り位しか、彼にはできなかった。任された工具の運搬すらもできなかった。頭の大切にしていた木槌の管理すらも……。
エネルは魂を吐き出しそうな大きなため息を吐き、未だ帰らぬ友に背を向けた。
やって来たのは、工房。一月ぶりだ。
彼が来るのは給料の受け取りの為。そう。今でも、何も働いていない今でも、頭は毎月給料をくれる。
最初は有り難かったが、随分前から心苦しさが優っていた。とはいえ、それが無ければ飢えてしまうのも事実。突っ張れない自分が情けなく、地に溶けて消えてしまいたくなる。
大きな鉄の扉を開くと、爽やかな風が鼻腔を抜けていく。
久方ぶりの訪れだというのに、空気は淀んでいない。中を歩き進んでも、埃が立つことは無い。
棚に整然と並べられた工具。一ヶ所だけぽっかりと空いた空間に、心がざわめく。
頭の姿は無かった。どうやら自宅の方のようだ。
気が重い。だが、行かなければならない。
エネルはとぼとぼと、ティモンの自宅へ向かう。
●ティモン宅
欠伸が漏れる。
目の下にできた深い隈。
眠れぬ日々が蝕むのは、募り募った想いの沼。産み落とされるのは、ねじくれてどす黒く変色した遠い記憶の残滓。
居間の棚に飾られた木製の船の模型を手に、ティモンは赤ずんだ瞳を滲ませる。
12になる頃に息子が作った模型。最後に、息子が旅だった船の模型。
――嵐。
運が悪かったのか。そういう運命だったのか。どうしようもなかったのか。
「……違う」
己の造った船が未熟だったから、息子は帰って来れなかったのだ。
ティモンの手が震え、ぽとりぽとりと模型に染みが広がっていく。
リプレイ本文
「ずっと待った、それは聞いた。せなら今日後一日、一回信じたってもえぇんちゃうん……?」
「見て分からねえか? 仕事中なんだ」
男は白藤(ka3768)の後頭部を見ながら、工房の戸に手をかける。
悲痛な女の叫びも、冷めた男の瞳を揺るがすことは出来ない。
「お願いや。うちの手でも、誰の手でもない……貴方の手が必要なんや……!」
ガタン。
懇願は戸に遮られ、白藤は唇を噛んだ。
しかしすぐに顔を上げ、メモを取り出す。次の工房は二ブロック先。感傷に浸っている暇は無い。悲しみを悲しみのまま終わらせない為に――。
白藤は馬で駆けた。
「やっぱタダ酒はいいねえ」
「喜んで貰えたなら何よりだ」
酒場にてモルテと隣り合うのはエアルドフリス(ka1856)。滑らかな舌から矢継ぎ早に繰り出された情報を頭の中で整理しつつ、エアは一口エールを流し込む。
白藤はとうに酒場を出た。今頃は元工員の下を巡っているだろう。ほろ酔い加減のモルテをちらりと見て、エアは続きを促す。
「それで木槌、で間違いないのだな?」
「ん、ああ。そーいやさっき、あの男からも木槌がどうのとか聞いてたな」
ビリーの持つ木槌、ティモンの失った木槌。時は同じく一年前。もしや、という考えが生まれたのは自然なことだ。
更に一通りの話を聞き終えたエアが礼を言って席を立つと、不意にモルテが言った。
「瘡蓋を剥がしたくなるのは、何でなんだろうな」
ジョッキを揺らすモルテ。
「治りが遅すぎて待ってられないのか――」
「自分への戒めの為、か」
エアの瞳が灰を帯びて。
「流るる血の尽きる時まで」
「もしくは、忘れるのが怖いとか」
「過去を? いや、忘却そのものか?」
「案外自分を痛めつけるのが趣味なのかもな」
モルテは笑って席を立つ。
「少し酔ったか。悪いな、後輩。少し眼が似ていたんでな。ごちそうさん」
ぽんと肩を叩き出ていくモルテを見送り、エアは伝話を手に取った。
酒場での聞き取りが行われていた頃。
「入ってもいいの?」
「ええ、どうぞ」
ジュード・エアハート(ka0410)は工房『トレスターレ』に足を踏み入れる。
「随分綺麗だね。掃除は誰が?」
「多分……親方でしょうね」
エネルは悲愴な顔で腰を下ろす。嘗ての賑わいが逃げ出した床に。
ジュードはきょろきょろと見回し、脇の棚に足を運ぶ。規則正しく並んだ工具の中、ぽっかり空いた隙間。そっと掌で擦り、一瞬脳裏に浮かんだ亡き人を想い、そのまま胸元の銀貨に触れる。
瞼を下ろし、一拍おいて、ジュードは振り返った。
「ティモンさんを立ち直らせるためにも、協力してもらうよ、エネルさん」
「気を付けて下さいね」
「っとと」
ルドルフ・デネボラ(ka3749)とレホス・エテルノ・リベルター(ka0498)は、ビリーを伴って座礁した船に上がる。
「ボクは船底の確認をしてくるね」
「すみませんレホスさん、お願いします。ビリーさん、積荷はどうします?」
「全部もう駄目ですね」
「分かりました、っとこれは?」
ルドルフが示したのは、操舵輪に括られた一本の木槌。
「それは――」
「うわぁ、綺麗な人だね」
肩口からひょっこり顔を覗かせたレホスが、木槌に彫られた女の顔を評した。
忌々しそうに不要と告げるビリーから一先ず預かり、ルドルフは引き揚げ準備の為に一旦港へ戻る。甲板に、鉞を手にマストの前でにっこりと笑っているレホスとちょっと怯えているビリーを残して。
「いい加減帰れ」
そう冷たく言い放つティモンに、鳴神 真吾(ka2626)は苦悩を顔に過ぎらせる。
「……何でそうなんだ。そんな昼間から酒浸りで、不健康そうな面して、みっともないったらないぜ」
「何だと……?」
「今のあんたを見て息子さんが喜ぶとでも思ってんのか。俺だって喧嘩別れしたっきりだけどな。それでも親を悲しませて平気な顔ができる奴がいてたまるか!」
「貴様みたいな小僧に何が分かる!?」
胸倉に掴みかかるティモンを、真吾は振りほどこうとはしなかった。ただその顔に苦渋を浮かべて。責め手である彼の方が、より大きな苦しみに苛まれているかのように。
「見たくないんだよ! そんな面! あんたがそんなんじゃ……」
新たな手が脇から差し込まれる。ティモンの手を覆う、朴訥で大らかな掌。伝話を手に席を外していたスピノサ ユフ(ka4283)は、二人を静かに見つめる。場の空気は一転して、静けさに覆われた。
胸倉を掴む手を見つめ、真吾はぽつりと言う。
「……俺はリアルブルー出身だ。ある日突然こっちに来た。当然、家族は向こうにいる。多分あっちじゃ、俺は蒸発したか死んだってことになってるんだろうな。――息子さんのように、な」
ティモンの瞳が揺れ、手が落ちる。
「仲間があなたの工房を見た。綺麗に片付いていたそうだよ」
スピノサの落ち着いた声がやけに響く。
「生物には本来の在り方があると思う。私達ハンターには、大切なものを失った人が大勢いる。ティモン、あなたのように。それでも尚、歩みを止めはしない。何故だかお分かりですか?」
ティモンは俯き、首を横に振る。
「力があるからです。それは触れる為の理由となり得る筈。あなたにもそれがあるはずだ。船が沈んだ理由を探り、それを乗り越える力が、船大工であるあなたには」
理には理。それがきっと、答えへの道標となるのだから。
「これから砂浜で船の引き揚げが行われる。せめて、引き揚げに協力してくれると助かるよ。――行こう、鳴神」
退出するスピノサ。真吾は家を出る間際に振り返る。部屋の中で俯き立ち尽くすティモンを。
「……なあ、あんたと親父が重なるんだ」
真吾は背を向けて、戸に手をかける。
「そんな情けねえとこ見せないでくれ。頼む……」
パタリと閉じた戸の向こうで、静寂は色を深めた。
●
レホスが船底の穴を塞ぎ、ビリーと手分けして水の排出をして、帆を外し終えた頃丁度、準備を終えたルドルフが小舟に乗ってやって来た。
「ふぅ、やること多くて大変だね」
「ですね。もうすぐ皆さんもこちらに来れるらしいので、もう一踏ん張りです」
砂浜と船を何往復かして、荷物を搬出する。
最後の荷を運び終えた時、浜にはエアとジュードが待っていた。
「こいつは……何というか、立派だな」
「うん、大きいね」
二人が眺めているのは、ルドルフが連れてきた水牛。
草をはむそれは顔を上げ、円らな瞳を向けて来る。
「分かる? ルドルフさん。ボクの魂が今すっごく打ち震えているのが!」
そう言って水牛を抱きしめて頬をこすり付けているレホスに、ルドルフは苦笑する。
「まさか出番がやってくるとは思いもしませんでしたけどね」
「この雄姿を見たいがために、俺はここに流れてきたのやもしれん」
「何を言ってるの、エアさん」
呆れるジュードの目に、新たに二人の影が映る。
「水牛とは懐かしいな」
「この角、大丈夫なのか?」
スピノサと真吾に、4人の目が集まり、二人は首を横に振った。
「引き揚げのことは伝えたけど、来るかどうかは」
「ちっと言い過ぎちまったかな」
「仕方ないよ。こればっかりはさ」
「歩み出すには当人の力も不可欠だ」
「信じよう! きっと来てくれるって」
「俺達には、俺達の出来ることを」
言って、ルドルフはあっと懐から木槌を取り出した。
「これを。例のやつです」
「すみませーん! 遅れました!」
先に行ってほしいとジュードと別れたエネルが走ってやって来る。
ジュードはルドルフから木槌を受け取ると、それを懐にしまった。
「今渡さないので?」
「然るべき時に、ね」
ジュードをウィンクを一つ。手札を切るのは、それが最も効果的と思われるタイミングで。今はまだ、一人足りていない。最後のピースを埋める為に、奔走している彼女が。
「さ、皆で頑張って引き揚げよう! 勿論君も、頼りにしてるよ!」
レホスの掛け声に、水牛は反芻していた。
彼らがロープを引き、船を牽引し始めて20分。
引き揚げ作業は順調に進み、船も浜までもうすぐだ。
満ち引きを繰り返す波の中、岸壁に触れないように注意しながら手繰り寄せていた彼らを、岸から見つめる視線があった。
「親方……」
エネルの呟きに、一同の手は止まる。
誰からともなくティモンの下へ足が向いた。
悲しみを湛えた瞳を前にして、スピノサは口を開く。
「来てくれてありがとう」
「……いや」
「さっきは言い過ぎた。悪い」
「いいさ……」
ティモンは真吾に首を振る。
「来てくれたってことは、船の修理、引き受けてもらえるのかな?」
「…………」
ジュードに返って来る応えは無い。
暫し沈黙が過ぎ、真吾は我慢できずに切り出した。
「本当はさ、作りたいんじゃないのか? 今度こそ後悔しないですむ船をさ」
でなければ、一年も工房を整えているはずがない。一年も給料を払い続けているはずがない。自分の船で息子を亡くした未練が無ければ。
「若造が言うことじゃないが、一芸に賭けたプロってそういうもんだろ。その年まで本気で打ち込んだんだ。今更背中なんか向けられねえ。違うか?」
「あの船、ずっとそのままじゃ、かわいそうだよ。ティモンさんなら治して、また元気に海を渡っていけるようにできるんだよね。……ボクの船は袋小路に入り込んじゃって、今はお休みしてるけど、船ってさ、元々広い海を自由に飛び回れるものなんじゃないかな。……治るなら、治してあげたいな」
レホスの言葉を聞きながら、ジュードはエネルに目を向ける。けれど、彼は動こうとはしない。口を開こうとはしない。ティモンの方を見ようとはしない。
「さ、引き揚げに戻ろう。彼――彼女? 一人じゃ大変そうだよ」
水牛はのしのしとその場で足踏みを繰り返す。
それを見て、レホスは走り、真吾も後を追った。
「君も手伝ってね」
「え、あ」
ジュードはエネルを引き連れて走る。
「自分に出来ることを」
ルドルフは凝った肩を回す。
「口で言うのは簡単だけど、本当にそれを実践できている人は少ないんだと思います。でも俺は、そうありたいと思っています」
走り去るルドルフの背を見て、ティモンは漸く口を開いた。
「……今更俺に何が出来る。息子一人生還させられない、この俺に」
「人一人でできることなど、たかが知れている。船が勝手に出来上がるわけではないように、一人で作り上げられるもんでもないでしょう。貴方がそうやって何もかも自分の所為にしている間は、何も変わりはしません。……死んだように生きるのは、楽ですしね」
エアはふっと何かを吐き出すように言う。
「貴方は素晴らしい職人だったと皆言う。息子さんはそんな貴方が誇りだったんじゃあないですか」
「……もう俺には何もない。何も……」
ティモンは浜で縄を引く彼らを見つめる。一生懸命に、楽しそうに作業をする彼らを。
スピノサは首を巡らせ、柔らかな目を一層緩めた。
「世界はあなたを拒まない。あなたがそうしない限り、きっと」
エアはスピノサの視線を追って、ふっと笑った。
「それに……貴方を待っている人もいます」
二人の視線を辿ってティモンが見たのは、6人の男女。女は見慣れぬ者だったが、他の5人は――。
「間に合った、んかな」
「ああ、ご苦労様、白藤」
息を切らした彼女を、スピノサは微笑みで迎えた。
「ばかな……」
「力があれば、他の人も助けれるやもしれん、それが職人さんなんやで?」
命ある限り、生きてここにいる限り、諦めて欲しくは無い。
唖然とするティモンを置いて、3人はその場を後にする。
「……丸くなったものだ」
それは誰に向けたものでもない。エアの呟きはぽとりと落ちて、砂に紛れて見失った。引き揚げは、もう後ほんの少しだ。
「どうして……」
ティモンの疑問に、元工員の一人が苦笑いを浮かべた。
「随分とお人好しな連中に捕まっちまったみてえだな、親方」
男は走り行く黒髪の女の背を眺めやる。
匂い立つような妙齢の女だった。
目を奪うような色気、男を魅了する妖艶な目つき、薄く引いた紅色の唇。
交渉をする際に、それは強烈な武器となる。道具となる。そんな女に言い寄られたら、大抵の男は頷いてしまうだろう。それがどのような要求であっても。
だが、彼女はしなかった。自身の持つ色香も、女の涙も、覚醒者としての脅しも、彼女は使わなかった。
ただ真摯に、ただ誠実に、ただただひた向きに頭を下げ続けた。
どのような罵声が降りかかろうとも、どのような蔑視を向けられようとも、何度も何度も。
「なんでここまでする。ハンターにとって、依頼ってのはそこまでのものなのか?」
不思議がった男の問いに、女は首から提げた十字架をいじる。
「……昔のうちに――いや、ここがな」
そう言って、女は自分の胸をさす。
「そうしろってうるさいんや。――ってちゃうわ、今の無し無し」
照れ臭そうに頭を掻きむしる女を見て、男は笑った。
ティモンともう一度向き合って欲しいと乞う女に、男は笑って頷いた。
16人中5人。それを多いとみるか、少ないとみるかは、その人次第。
ただ一つ言えることは、この5人は、ティモンが歩みを続ける限り、もう離れることは無いだろうということだけ。
浜に並べたコロの上に、船が降りたつ。
「支えの棒を!」
ルドルフの声に、エアとスピノサは左右から棒で固定していく。
「これは!?」
戸惑うエネルの手には、一本の木槌。ジュードは優しく微笑む。
「君の仕事でしょ?」
「そう、だけど」
「とても勇気のいることだよね。でも、だからこそ、伝えなければいけないこともあると思うよ。目の前の人が明日もここにいる、なんて誰にも分からないんだからさ」
レホスも胸に手を当てる
「耳を澄ましてみて。自分の心の声を聞いてあげて。やらずに後悔するくらいなら、やって後悔しようよ」
エネルは駆けだす。再び集った彼らの下へ。
彼がその輪に加わり、木槌を渡し、ティモンが俯くのを見て、真吾達は背を向ける。
「男の涙は直視しないのがマナーってもんだ」
「太陽と同じ、というわけだね」
「なら、女の涙は月かいな?」
「愛でる分には同じかね。涙は女のだけで十分さ」
「エアルドさんは何人の女性を泣かせてきたのかな」
「ジュードさんの笑顔がちょっと怖いんですが」
「え? そうかな?」
「こりゃあ参ったな」
空を仰ぎ、ぐっと伸びをして緩く笑む白藤をスピノサが食事に誘う。
「もう良い時間だな。そうだ、晩の予定は?」
「息がつまってもーとったな……ちょっとゆっくりしたいし、付き合ってーや」
二人が町へ消えた頃、海岸沿いを歩く影二つ。
「俺もいつか自分の船を持てる時が来るのかな」
「その時は――」
胸元のコインが重なり、何事か囁き――。彼は笑う。
「勿論!」
翌朝、その工房からは木槌を振るう小気味よい音が漏れ出ていた。
トレスターレ。悲しみを受け入れた男達が奏でるのは、断固たる決意。
その歩調に、もう迷いは無い。
「見て分からねえか? 仕事中なんだ」
男は白藤(ka3768)の後頭部を見ながら、工房の戸に手をかける。
悲痛な女の叫びも、冷めた男の瞳を揺るがすことは出来ない。
「お願いや。うちの手でも、誰の手でもない……貴方の手が必要なんや……!」
ガタン。
懇願は戸に遮られ、白藤は唇を噛んだ。
しかしすぐに顔を上げ、メモを取り出す。次の工房は二ブロック先。感傷に浸っている暇は無い。悲しみを悲しみのまま終わらせない為に――。
白藤は馬で駆けた。
「やっぱタダ酒はいいねえ」
「喜んで貰えたなら何よりだ」
酒場にてモルテと隣り合うのはエアルドフリス(ka1856)。滑らかな舌から矢継ぎ早に繰り出された情報を頭の中で整理しつつ、エアは一口エールを流し込む。
白藤はとうに酒場を出た。今頃は元工員の下を巡っているだろう。ほろ酔い加減のモルテをちらりと見て、エアは続きを促す。
「それで木槌、で間違いないのだな?」
「ん、ああ。そーいやさっき、あの男からも木槌がどうのとか聞いてたな」
ビリーの持つ木槌、ティモンの失った木槌。時は同じく一年前。もしや、という考えが生まれたのは自然なことだ。
更に一通りの話を聞き終えたエアが礼を言って席を立つと、不意にモルテが言った。
「瘡蓋を剥がしたくなるのは、何でなんだろうな」
ジョッキを揺らすモルテ。
「治りが遅すぎて待ってられないのか――」
「自分への戒めの為、か」
エアの瞳が灰を帯びて。
「流るる血の尽きる時まで」
「もしくは、忘れるのが怖いとか」
「過去を? いや、忘却そのものか?」
「案外自分を痛めつけるのが趣味なのかもな」
モルテは笑って席を立つ。
「少し酔ったか。悪いな、後輩。少し眼が似ていたんでな。ごちそうさん」
ぽんと肩を叩き出ていくモルテを見送り、エアは伝話を手に取った。
酒場での聞き取りが行われていた頃。
「入ってもいいの?」
「ええ、どうぞ」
ジュード・エアハート(ka0410)は工房『トレスターレ』に足を踏み入れる。
「随分綺麗だね。掃除は誰が?」
「多分……親方でしょうね」
エネルは悲愴な顔で腰を下ろす。嘗ての賑わいが逃げ出した床に。
ジュードはきょろきょろと見回し、脇の棚に足を運ぶ。規則正しく並んだ工具の中、ぽっかり空いた隙間。そっと掌で擦り、一瞬脳裏に浮かんだ亡き人を想い、そのまま胸元の銀貨に触れる。
瞼を下ろし、一拍おいて、ジュードは振り返った。
「ティモンさんを立ち直らせるためにも、協力してもらうよ、エネルさん」
「気を付けて下さいね」
「っとと」
ルドルフ・デネボラ(ka3749)とレホス・エテルノ・リベルター(ka0498)は、ビリーを伴って座礁した船に上がる。
「ボクは船底の確認をしてくるね」
「すみませんレホスさん、お願いします。ビリーさん、積荷はどうします?」
「全部もう駄目ですね」
「分かりました、っとこれは?」
ルドルフが示したのは、操舵輪に括られた一本の木槌。
「それは――」
「うわぁ、綺麗な人だね」
肩口からひょっこり顔を覗かせたレホスが、木槌に彫られた女の顔を評した。
忌々しそうに不要と告げるビリーから一先ず預かり、ルドルフは引き揚げ準備の為に一旦港へ戻る。甲板に、鉞を手にマストの前でにっこりと笑っているレホスとちょっと怯えているビリーを残して。
「いい加減帰れ」
そう冷たく言い放つティモンに、鳴神 真吾(ka2626)は苦悩を顔に過ぎらせる。
「……何でそうなんだ。そんな昼間から酒浸りで、不健康そうな面して、みっともないったらないぜ」
「何だと……?」
「今のあんたを見て息子さんが喜ぶとでも思ってんのか。俺だって喧嘩別れしたっきりだけどな。それでも親を悲しませて平気な顔ができる奴がいてたまるか!」
「貴様みたいな小僧に何が分かる!?」
胸倉に掴みかかるティモンを、真吾は振りほどこうとはしなかった。ただその顔に苦渋を浮かべて。責め手である彼の方が、より大きな苦しみに苛まれているかのように。
「見たくないんだよ! そんな面! あんたがそんなんじゃ……」
新たな手が脇から差し込まれる。ティモンの手を覆う、朴訥で大らかな掌。伝話を手に席を外していたスピノサ ユフ(ka4283)は、二人を静かに見つめる。場の空気は一転して、静けさに覆われた。
胸倉を掴む手を見つめ、真吾はぽつりと言う。
「……俺はリアルブルー出身だ。ある日突然こっちに来た。当然、家族は向こうにいる。多分あっちじゃ、俺は蒸発したか死んだってことになってるんだろうな。――息子さんのように、な」
ティモンの瞳が揺れ、手が落ちる。
「仲間があなたの工房を見た。綺麗に片付いていたそうだよ」
スピノサの落ち着いた声がやけに響く。
「生物には本来の在り方があると思う。私達ハンターには、大切なものを失った人が大勢いる。ティモン、あなたのように。それでも尚、歩みを止めはしない。何故だかお分かりですか?」
ティモンは俯き、首を横に振る。
「力があるからです。それは触れる為の理由となり得る筈。あなたにもそれがあるはずだ。船が沈んだ理由を探り、それを乗り越える力が、船大工であるあなたには」
理には理。それがきっと、答えへの道標となるのだから。
「これから砂浜で船の引き揚げが行われる。せめて、引き揚げに協力してくれると助かるよ。――行こう、鳴神」
退出するスピノサ。真吾は家を出る間際に振り返る。部屋の中で俯き立ち尽くすティモンを。
「……なあ、あんたと親父が重なるんだ」
真吾は背を向けて、戸に手をかける。
「そんな情けねえとこ見せないでくれ。頼む……」
パタリと閉じた戸の向こうで、静寂は色を深めた。
●
レホスが船底の穴を塞ぎ、ビリーと手分けして水の排出をして、帆を外し終えた頃丁度、準備を終えたルドルフが小舟に乗ってやって来た。
「ふぅ、やること多くて大変だね」
「ですね。もうすぐ皆さんもこちらに来れるらしいので、もう一踏ん張りです」
砂浜と船を何往復かして、荷物を搬出する。
最後の荷を運び終えた時、浜にはエアとジュードが待っていた。
「こいつは……何というか、立派だな」
「うん、大きいね」
二人が眺めているのは、ルドルフが連れてきた水牛。
草をはむそれは顔を上げ、円らな瞳を向けて来る。
「分かる? ルドルフさん。ボクの魂が今すっごく打ち震えているのが!」
そう言って水牛を抱きしめて頬をこすり付けているレホスに、ルドルフは苦笑する。
「まさか出番がやってくるとは思いもしませんでしたけどね」
「この雄姿を見たいがために、俺はここに流れてきたのやもしれん」
「何を言ってるの、エアさん」
呆れるジュードの目に、新たに二人の影が映る。
「水牛とは懐かしいな」
「この角、大丈夫なのか?」
スピノサと真吾に、4人の目が集まり、二人は首を横に振った。
「引き揚げのことは伝えたけど、来るかどうかは」
「ちっと言い過ぎちまったかな」
「仕方ないよ。こればっかりはさ」
「歩み出すには当人の力も不可欠だ」
「信じよう! きっと来てくれるって」
「俺達には、俺達の出来ることを」
言って、ルドルフはあっと懐から木槌を取り出した。
「これを。例のやつです」
「すみませーん! 遅れました!」
先に行ってほしいとジュードと別れたエネルが走ってやって来る。
ジュードはルドルフから木槌を受け取ると、それを懐にしまった。
「今渡さないので?」
「然るべき時に、ね」
ジュードをウィンクを一つ。手札を切るのは、それが最も効果的と思われるタイミングで。今はまだ、一人足りていない。最後のピースを埋める為に、奔走している彼女が。
「さ、皆で頑張って引き揚げよう! 勿論君も、頼りにしてるよ!」
レホスの掛け声に、水牛は反芻していた。
彼らがロープを引き、船を牽引し始めて20分。
引き揚げ作業は順調に進み、船も浜までもうすぐだ。
満ち引きを繰り返す波の中、岸壁に触れないように注意しながら手繰り寄せていた彼らを、岸から見つめる視線があった。
「親方……」
エネルの呟きに、一同の手は止まる。
誰からともなくティモンの下へ足が向いた。
悲しみを湛えた瞳を前にして、スピノサは口を開く。
「来てくれてありがとう」
「……いや」
「さっきは言い過ぎた。悪い」
「いいさ……」
ティモンは真吾に首を振る。
「来てくれたってことは、船の修理、引き受けてもらえるのかな?」
「…………」
ジュードに返って来る応えは無い。
暫し沈黙が過ぎ、真吾は我慢できずに切り出した。
「本当はさ、作りたいんじゃないのか? 今度こそ後悔しないですむ船をさ」
でなければ、一年も工房を整えているはずがない。一年も給料を払い続けているはずがない。自分の船で息子を亡くした未練が無ければ。
「若造が言うことじゃないが、一芸に賭けたプロってそういうもんだろ。その年まで本気で打ち込んだんだ。今更背中なんか向けられねえ。違うか?」
「あの船、ずっとそのままじゃ、かわいそうだよ。ティモンさんなら治して、また元気に海を渡っていけるようにできるんだよね。……ボクの船は袋小路に入り込んじゃって、今はお休みしてるけど、船ってさ、元々広い海を自由に飛び回れるものなんじゃないかな。……治るなら、治してあげたいな」
レホスの言葉を聞きながら、ジュードはエネルに目を向ける。けれど、彼は動こうとはしない。口を開こうとはしない。ティモンの方を見ようとはしない。
「さ、引き揚げに戻ろう。彼――彼女? 一人じゃ大変そうだよ」
水牛はのしのしとその場で足踏みを繰り返す。
それを見て、レホスは走り、真吾も後を追った。
「君も手伝ってね」
「え、あ」
ジュードはエネルを引き連れて走る。
「自分に出来ることを」
ルドルフは凝った肩を回す。
「口で言うのは簡単だけど、本当にそれを実践できている人は少ないんだと思います。でも俺は、そうありたいと思っています」
走り去るルドルフの背を見て、ティモンは漸く口を開いた。
「……今更俺に何が出来る。息子一人生還させられない、この俺に」
「人一人でできることなど、たかが知れている。船が勝手に出来上がるわけではないように、一人で作り上げられるもんでもないでしょう。貴方がそうやって何もかも自分の所為にしている間は、何も変わりはしません。……死んだように生きるのは、楽ですしね」
エアはふっと何かを吐き出すように言う。
「貴方は素晴らしい職人だったと皆言う。息子さんはそんな貴方が誇りだったんじゃあないですか」
「……もう俺には何もない。何も……」
ティモンは浜で縄を引く彼らを見つめる。一生懸命に、楽しそうに作業をする彼らを。
スピノサは首を巡らせ、柔らかな目を一層緩めた。
「世界はあなたを拒まない。あなたがそうしない限り、きっと」
エアはスピノサの視線を追って、ふっと笑った。
「それに……貴方を待っている人もいます」
二人の視線を辿ってティモンが見たのは、6人の男女。女は見慣れぬ者だったが、他の5人は――。
「間に合った、んかな」
「ああ、ご苦労様、白藤」
息を切らした彼女を、スピノサは微笑みで迎えた。
「ばかな……」
「力があれば、他の人も助けれるやもしれん、それが職人さんなんやで?」
命ある限り、生きてここにいる限り、諦めて欲しくは無い。
唖然とするティモンを置いて、3人はその場を後にする。
「……丸くなったものだ」
それは誰に向けたものでもない。エアの呟きはぽとりと落ちて、砂に紛れて見失った。引き揚げは、もう後ほんの少しだ。
「どうして……」
ティモンの疑問に、元工員の一人が苦笑いを浮かべた。
「随分とお人好しな連中に捕まっちまったみてえだな、親方」
男は走り行く黒髪の女の背を眺めやる。
匂い立つような妙齢の女だった。
目を奪うような色気、男を魅了する妖艶な目つき、薄く引いた紅色の唇。
交渉をする際に、それは強烈な武器となる。道具となる。そんな女に言い寄られたら、大抵の男は頷いてしまうだろう。それがどのような要求であっても。
だが、彼女はしなかった。自身の持つ色香も、女の涙も、覚醒者としての脅しも、彼女は使わなかった。
ただ真摯に、ただ誠実に、ただただひた向きに頭を下げ続けた。
どのような罵声が降りかかろうとも、どのような蔑視を向けられようとも、何度も何度も。
「なんでここまでする。ハンターにとって、依頼ってのはそこまでのものなのか?」
不思議がった男の問いに、女は首から提げた十字架をいじる。
「……昔のうちに――いや、ここがな」
そう言って、女は自分の胸をさす。
「そうしろってうるさいんや。――ってちゃうわ、今の無し無し」
照れ臭そうに頭を掻きむしる女を見て、男は笑った。
ティモンともう一度向き合って欲しいと乞う女に、男は笑って頷いた。
16人中5人。それを多いとみるか、少ないとみるかは、その人次第。
ただ一つ言えることは、この5人は、ティモンが歩みを続ける限り、もう離れることは無いだろうということだけ。
浜に並べたコロの上に、船が降りたつ。
「支えの棒を!」
ルドルフの声に、エアとスピノサは左右から棒で固定していく。
「これは!?」
戸惑うエネルの手には、一本の木槌。ジュードは優しく微笑む。
「君の仕事でしょ?」
「そう、だけど」
「とても勇気のいることだよね。でも、だからこそ、伝えなければいけないこともあると思うよ。目の前の人が明日もここにいる、なんて誰にも分からないんだからさ」
レホスも胸に手を当てる
「耳を澄ましてみて。自分の心の声を聞いてあげて。やらずに後悔するくらいなら、やって後悔しようよ」
エネルは駆けだす。再び集った彼らの下へ。
彼がその輪に加わり、木槌を渡し、ティモンが俯くのを見て、真吾達は背を向ける。
「男の涙は直視しないのがマナーってもんだ」
「太陽と同じ、というわけだね」
「なら、女の涙は月かいな?」
「愛でる分には同じかね。涙は女のだけで十分さ」
「エアルドさんは何人の女性を泣かせてきたのかな」
「ジュードさんの笑顔がちょっと怖いんですが」
「え? そうかな?」
「こりゃあ参ったな」
空を仰ぎ、ぐっと伸びをして緩く笑む白藤をスピノサが食事に誘う。
「もう良い時間だな。そうだ、晩の予定は?」
「息がつまってもーとったな……ちょっとゆっくりしたいし、付き合ってーや」
二人が町へ消えた頃、海岸沿いを歩く影二つ。
「俺もいつか自分の船を持てる時が来るのかな」
「その時は――」
胸元のコインが重なり、何事か囁き――。彼は笑う。
「勿論!」
翌朝、その工房からは木槌を振るう小気味よい音が漏れ出ていた。
トレスターレ。悲しみを受け入れた男達が奏でるのは、断固たる決意。
その歩調に、もう迷いは無い。
依頼結果
依頼成功度 | 大成功 |
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相談卓 鳴神 真吾(ka2626) 人間(リアルブルー)|22才|男性|機導師(アルケミスト) |
最終発言 2015/03/25 19:58:57 |
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依頼前の挨拶スレッド ミリア・クロスフィールド(kz0012) 人間(クリムゾンウェスト)|18才|女性|一般人 |
最終発言 2015/03/25 09:10:56 |