●雪原の老シロクマ
　辺境のとある雪原に、小さな集落があった。
　住民はわずか10世帯ほどの小集団で、そのあたりを居住区とする少数部族の１グループに過ぎない。歪虚との接触を避けるため、必要に応じて集落の場所を移しながら生活している流浪の民たちだ。
　彼らは農耕や牧畜を一切行わず、果てしない雪原と針葉樹の森でトナカイなどを狩って主食としている。軽い骨組に分厚い毛皮や布をかけた独特の移動式テントを住居とし、厳しい気候の中で昔ながらの生活を営んでいた。

　彼らが現在の居住地に移動して来たのは、およそ半年前のこと。
　雑魔の目撃が増えた以前の土地を捨て、雪原の中を何日も彷徨った末にこの地を見つけ、新たな集落の場所としたのだ。

　そして、後に『シロクマ様』と呼ばれることになる１頭のシロクマが集落に現れたのは、移住から１ヶ月ほど過ぎた頃だった。
　それは、歪虚の脅威が迫るこの地においては珍しいほど年老いた、雌の個体。艶がなくボサボサの毛並みと片方の犬歯が抜け落ちたその姿は、彼女に十分な狩りの能力が残されていないことを物語っていた。

　大型の獲物を狩ることができない彼女は、いつの頃からか集落のゴミ捨て場で人間の食べ残しを漁るようになり、やがて毎日そこへ通ってくるようになった。
　人や犬を恐れることもなくなり、かといってペットのように馴れることも、人を襲うこともなく、残飯を食べては集落の周りをしばらく散歩して帰る。それが彼女の日課だった。

　住民たちは、毎日見かける長寿のシロクマを精霊の化身であろうと大切に扱い、一定の距離を保ちながら良好な関係を築いていた。

　それだけではない。
　集落がオオカミの群れに狙われ、4歳の少女・マウジャが危うくその牙の餌食にならんとした時、彼女は咆哮一つでオオカミを蹴散らし、救ったのだ。
　もちろん、彼女にはマウジャを救うつもりなどなく、自身のエサ場をオオカミから守ったに過ぎないのだろうが、その一件を機に彼女は『シロクマ様』と呼ばれ、ますます大切にされるようになっていった。

●シロクマ様の危機
「かあさん、シロクマさまいなかったね。あしたはくる？」
　ある日の夕方、集落のゴミ捨て場を訪れたマウジャは、いつもの白くて大きな背中が見えないことに気が付いた。家に帰る道すがら、傍らの母を見上げて問う。
「そうね……どうしたのかしら。明日また来てみましょうね」
　首を傾げて答えながら、いつ寿命を迎えても不思議ではない老シロクマを思い、母は少し不安になっていた。

　その時。

「大変だ！！　シロクマ様が雑魔に襲われたぞ！！！」

　狩りから戻った男たちの叫びに、マウジャはピタッと足を止めた。
　集落の入り口がにわかに騒がしくなり、テントから出てきた女たちが何事かと駆けて行く。

「シロクマ様が雑魔に追っかけられて、向こうの森に入ってくのを見たんだ！」
「あの体力じゃ逃げ切れるかどうか……」
「おのれ！　神聖なシロクマ様を……！」
「おお、何ということ……。シロクマ様はきっと、集落を雑魔から守るべく自ら囮になられたのじゃ……」
「シロクマ様は集落の恩人よ！　助けに行かなきゃ！！」
「でも雑魔なんて俺たちだけじゃ……」
「クソッ！　どうにかならねぇのか！？」

　拳を地面に叩きつけ、己の無力を嘆く男たち。女子供は目に涙を浮かべ、精霊たちに祈りを捧げるしかなかった。

「かあさん……。シロクマさま、しんじゃうの……？」
　マウジャは母の手を強く握りしめ、震える声でそう尋ねた。
　母は無言で彼女を抱き上げると、自らに言い聞かせるようにゆっくりと、噛みしめるように言葉を吐く。

「……大丈夫。大丈夫よ……。シロクマ様は精霊の化身だもの。雑魔になんか、負けないわ」

「ぜったい、ぜったいたすけてあげてね！　シロクマさま、みつけてきてね！　おねがい……！」
　やる気満々の犬たちを繋いだソリの前で、出発の準備をするハンターたち。見送りに来た住民たちの中で、涙ながらに訴えているのは少女・マウジャだった。
「安心せい。シロクマ様はワシ等が助ける故な」
　彼女を振り返り、低木の上の猫でも助けるかのような軽い調子で答えたのは神立(ka6676)だ。唇の端だけを僅かに歪めて、やや気だるげに笑う。
「大丈夫！　あたしたちが絶対に助けてくるよ」
　少しだけ人見知りを発動した様子のマウジャに、シアーシャ(ka2507)が明るく声をかけた。傍らでは、巻尾の柴犬が新雪にはしゃいでいる。
「シロクマ様は、みんなの神聖不可侵なアイドルなんだよね。絶対に見つけるから、安心して待っていてね？」
「あいどる……？」
　首を傾げつつ、シアーシャの屈託のない笑顔を見つめるマウジャ。母親の顔を一度見上げてから、
「……うん！　まってる！！」
　シアーシャと神立を交互に見ながら、何度も大きく頷いてみせるのだった。

「人を襲わぬ熊……守り神シロクマ様ですか。偶然なのかもしれませんが、何だか素敵な話ですね」
　少し離れた位置で彼女らの様子を見ていた連城　壮介(ka4765)は、靴に装着した小さめのスノーシューのようなものを新雪の上で試しながら、穏やかな口調で呟いた。
「辺境の部族は祖霊信仰に篤いからなぁ。きっかけがありゃ頷けもする話だあな」
　軽く肩をすくめ、応えたのはジャンク(ka4072)。ターバンについた雪を払い、雑魔の目撃者からの情報を書いた紙に再び目を通す。そこには、シロクマの体格や足跡の大きさ、雑魔の絵が描かれていた。
「嘘から出た真……ではないですが、村の方にとっては本当の守り神。心の支えです。何としても助けないと、ですね」
　ジャンクの手元の紙を覗き込みつつ、ユキヤ・S・ディールス(ka0382)が言う。その顔は、寒さを感じないかのように柔らかく微笑んでいた。
「ま、何よりシロクマ様にとっちゃ命の危機だ。部族の奴らの代わりに日頃の礼を兼ねて助けてやるかい」
「はい。いつかは部族との別れが来るにしても、その時は出来るだけ遠いものにしてあげたいですね」
　ジャンクの言葉に、壮介が同意を示す。同じく頷いたユキヤの隣で、うーん、と唸り声をあげたのはマチルダ・ローリング＝ストーン(ka6181)だった。
「どうしました？」
「何でもないっすよ。シロクマに……アザラシ？　リアルブルーじゃ見慣れてたんっすけど、こっちでってなると懐かしい気がしただけッス」
「リアルブルーで？　ご出身はどちらですか？」
　マチルダの答えに好奇心をくすぐられたのか、不思議そうに問うユキヤ。マチルダは「極北ッス」と短く返し、再びジャンクの手元に目を落とした。
「いや、でも……」
　半眼で雑魔のイラストを見つめ、マチルダが呟く。
「……流石に、そんなキモいアザラシはいなかったっすよ？」

　みんなあえて突っ込まなかったのに……みたいな空気が、ハンターたちの早めの出発を促した。

●B班（ジャンク・壮介・神立）
『こちらA班。雪の浅い所で、大型動物と人間のような足跡を発見しました。森の中心部へ、やや西寄りに続いているようです』
「了解。引き続き追跡してくれ。こっちも直に合流する」
　魔導短伝話から聞こえるユキヤの報告に、ジャンクは向かう方角を僅かに修正する。

　犬ぞりを降りた後、ハンターたちは2班に分かれてシロクマと雑魔を捜索していた。
　時折降る雪のため、森の外と外縁部の足跡は殆ど消えている。柴犬を連れたA班は目撃者が最後にシロクマを見た森の北側から、B班は風下にあたる森の西側から、森の中心部に向かって進むことにしていた。

　森の中は針葉樹の密度により、降雪の影響を受けやすい場所とそうでない場所に分かれる。
　A班がターゲットの痕跡を発見できたのは幸いであった。

「西寄りじゃと？　であれば、ワシ等が先に鉢合わせるやもしれんのう。そろそろ臭ってくるのではないか？」
「少し急ぎましょう。雑魔がまだシロクマ様の近くにいるとすれば、かなり危険です」
　くんくんと鼻を動かして雑魔の気配を探る神立。壮介は片手を腰の刀に添え、いつでも抜刀できる状態で歩を速めた。

　風に乗って、ライフルの銃声と人の声が聞こえてくる。
　A班が雑魔を誘き寄せるため、あえて気配を振りまいているようだ。

「気をつけろ。靴に浮力はあるが、雑魔の前で雪に足を取られりゃ致命傷だぜ」
　覚醒してしまえば大幅なペナルティにはならないかもしれないが、辺りは誰も踏み固めていない新雪ばかり。部族の知恵を借りて靴に浮力をつけているものの、普段より行動しづらいのは事実であった。
　B班は風向きと方角を細かくチェックしながら、雪の中を進んでいく。

　――だが。

　運命の出会いは、いつも突然に。

「うわクセッ！！！？」
「なんじゃこの臭いは！　鼻が曲がるわ！」
　風に乗ってふんわりと、だが確実に、足のニオイが3人の鼻孔を突き抜けた。

　そう、例えるなら素足で1週間革靴を履き続けた時の、あの感じ……。
　素足で革靴なんかそうそう履く機会ないけど何故か想像できちゃう、あの強烈な臭いである。

「……うぅ」
　いつもは何を考えているかよくわからない印象の壮介も、さすがに結構嫌そうだ。そりゃ誰だって一生に一度くらいは足が臭くなるに違いないが、他人の足のニオイを許せるかどうかは別問題なのである。
「こちらB班。確実に臭う。確実に臭う。発見次第、交戦開始だ」
『あっ……わかりました』
　とりあえず報告をして、魔導銃を構えるジャンク。ぐるりと森を見回し、それを見つけた。

「発見。1匹しかいねぇ」

　少し離れた木の間から、仁王立ちしてこちらを見つめるアザラシ。
　とにかく可愛かった。足以外。

「話には聞いておったが……。実際に見ると無性に殴りたくなってくるのう……主に棒で」
　想像以上のビジュアルにちょっと青筋立てつつ、神立はスッと前へ出た。ゴキゴキと首や手を鳴らし、足くさアザラシを挑発する。
「連絡は任せるぞ。ワシはあれと遊んでおるのでな」
「俺は左へ。神立さんは右からお願いします」
　壮介が振動刀を抜いたと同時、アザラシがこちらへと駆け出した。新雪の中を忍者のように素早く、真っ直ぐに。

　どんどん迫るアザラシ。強くなるニオイ。

「臭いと言うておろうがーー！！」
　次の瞬間、神立怒りの右ストレートがアザラシの顔面をえぐった。ぐえ、と短い声を発しながらも踏みとどまり、怒りの頭突きで反撃するアザラシ。
　意外と石頭らしく、神立の視界がクラッと揺れる。だが、アザラシの次撃は来ない。

　ジャンクの放った銃弾が、ムキムキの左脚を撃ち抜いたのだ。

「こちらですよ」
　円を描くように二度、壮介の刀が閃く。

　体勢を崩したままのアザラシにはもう、足の臭い以外の攻撃手段が残されていなかった。

●A班（ユキヤ・シアーシャ・マチルダ）
　B班が雑魔1匹と交戦していた頃、足跡を追いながらB班のいる方角を目指していたA班のほうにも、状況の変化があった。
　シアーシャの愛犬が突然立ち止まり、低い声で唸りながら後退を始めたのだ。

「……来ましたね」
　A班の出していた騒音につられて来たのだろうか。雑魔の気配を感じ取ったユキヤが、金色の聖剣を抜き放つ。
「鬼さんこちらー、銃の鳴る方へっすよ！」
「こっちだよー！　シロクマ様よりおいしい人間がいるよー！」
　スナイパーライフルを構えたマチルダと日本刀を抜いたシアーシャが、こちらへ接近しているであろう雑魔に大声で呼びかけた。
　目と鼻に全神経を集中し、その時を待つ。

　――が、すぐに後悔した。

「えええーー！？　なに、変な臭いがするよー！」
「うわわ、やっぱこっち来んなっすー、クサいキモい」
「これは……。風下でなくとも、この威力ですか……」

　全神経集中しちゃったせいで、例のムレムレな香りが3人の全身を一気に駆け抜ける。
　ヌッと現れたアザラシは、こちらも1匹のみ。
　1匹で、風上にいるわけでもなくて、それでも確実に臭ってくる。それがこの雑魔の真の恐ろしさだと、3人は痛感していた。

「こちらA班。1匹遭遇しました。残り2匹はシロクマ様を追っている可能性があります」
『了解。引き続き捜索する』
　ユキヤの視線の先で、雑魔はじっとこちらを窺っている。やはり、仁王立ちで。
「なんか足が気持ち悪い……。つぶらな瞳なのが余計に……」
　シアーシャは、そろそろ泣きそうだった。なお、柴犬は悪臭の範囲外まで華麗に後退し、主人を見守っている。
「上下のバランスが変だし……というか臭いがすごいよー！　趣味がわるーい！」
　だんだん悪口になってきた頃、アザラシが動いた。

「グァァーーー！　グアァァーーーー！！！」

　えっ、アザラシってそんな感じで鳴くん？　と全員が思った瞬間、アザラシが加速。アスリートよろしく、こちらへ突進してきた。

「声もかわいくないーー！」
「アザラシってそんなに鳴かないんっすよね。久々に聞いたッス」
　我に返ったマチルダの強弾が、迫り来る悪臭の元を狙う。放たれた銃弾は冷気を裂き、筋肉質な腿に命中した。
「ホントは膝を狙ったんすけど。あまりのキモさに手許が狂ったっすかね……」
　それでも、アスリート風アザラシの機動力を一般人レベルアザラシまで落とすことには成功している。足を止めた臭いアザラシに、ユキヤのホーリーライトが飛んだ。
「時間をかけてはいられません。畳みかけましょう」
「よ、よーし！　いっくよー！！」
　輝く光弾がアザラシを捉え、吹っ飛ばす。その好機に、敵へと接近していたシアーシャが大きく踏み込んだ。
「グエェーー！！」
　鋭い刃に刺し貫かれ、雑魔の体がニオイごと崩れていく。シアーシャは刀を振って一息吐くと、
「行こう！　あと2匹、シロクマ様のほうにいるかも！」
　休む間もなく、足跡を追って駆け出した。

●シロクマ様、発見
「あんな所に……。でも、おかげで雑魔も手を出せてないっすね」
「はい。穴に雑魔を落とさないよう、こちらへ引きつけましょう」
　先にシロクマと残りの雑魔を発見したのは、足跡を追っていたA班だった。
　どうやら、木の根元に開いた大きな穴にシロクマが落ちてしまったらしい。穴の周りでは、足の臭いアザラシ2匹が延々と反復横跳びをしている。
「じゃあ、あたしが出て行って引きつけるね。援護をおねがい！」
　アザラシのビジュアルへの衝撃が薄れ、残念ながら悪臭にも鼻が慣れていたので、シアーシャは突入を決めた。ユキヤは状況をB班に伝えると、再び聖剣を抜く。
　そして、木の陰からシアーシャが飛び出した。
「こらーー！　シロクマ様に近づくなーー！」
　ハッとした顔で振り返ったアザラシ2匹に、光弾と銃弾がそれぞれ襲い掛かる。何とか倒れずに踏み止まるも、2匹まとめてシアーシャの刀に薙ぎ払われた。
（ちょっと浅い……かな？）
　まだ2匹は致命傷を受けていない。片方のアザラシが臭い足を一歩踏み込み、シアーシャの顔目がけて頭突きをかました。
　体をひねって石頭を腕でガードするシアーシャ。駆けつけたユキヤが穴とアザラシの間に割って入り、シロクマに害が及ばぬよう身を挺して守る。
　その時。
「おい、大丈夫か！？」
「シロクマ様か、こんな所におったとはのう」
　西側から合流したジャンクの制圧射撃を受け、動きを止める2匹。神立の鉄甲が唸りを上げ、シアーシャの前からアザラシを吹っ飛ばした。
「良かった。無事でしたね」
　さらに壮介の一撃を受け、雪上に倒れるアザラシ。閃いた次撃にその身が切り裂かれたのと、片割れがユキヤの光弾に穿たれたのは、ほぼ同時だった。

●野生動物の取り扱い
「怪我はないようですね。衰弱もないですし、大丈夫そうです」
　穴の縁からシロクマの様子を観察していたユキヤが、皆を振り返ってそう告げた。幸いなことに、彼女は雑魔の攻撃を受ける前に穴へ落ちたようだ。
「ただ、この深さでは自力で這い上がれませんね……。手を貸すべきでしょうか？」
　壮介は、仲間たちの顔を見回して問う。シロクマも何とか穴から脱出しようともがいているのだが、角度が急で出られないらしい。助けてやりたいのは当然だが、野生動物に人間が手を貸すかどうかは、時に判断が分かれるところだ。
　ジャンクはしばらく考え、「そうだなぁ」と頭を掻いた。
「距離は保たなきゃならねぇが……ま、雑魔がらみじゃ仕方ねぇ。穴から出すだけだぜ？　それ以上は関わらないのがお互いのためってな」
「そうじゃのう。今回は助けるしかあるまい？」
　面倒臭そうな声ではあるが、神立も肩をすくめて同意する。シアーシャはパッと表情を輝かせ、穴を覗き込んだ。
「やったー！　シロクマ様、いま助けるよ。集落のみんなが待っているから、また集落にごはん食べに来てね」
　老いたシロクマは彼女を見上げ、グルル……と咽の奥で小さく鳴いた。威嚇というよりは、応えるかのように。
「了解っすー。じゃ、木を斬るか丈夫な板が必要っすね。穴にちょっと雪入れて傾斜作って、その上に渡してやれば登りやすいはずっすよ」
　寒冷地に慣れたマチルダが、さっそく雪を集め始める。

　こうして、シロクマ様の命は救われたのだった。

●シロクマ様のその後
　深い穴の中からシロクマを救出したハンターたちは、念のため他の雑魔がいないか森の中を見て回り、無事に集落へと帰還した。
　精霊の化身であるシロクマ様の無事を知った住民たちは安堵の表情を浮かべ、温かいスープで恩人たちを労った。
　特にマウジャは大泣きするほど歓喜して、ハンターたち一人一人にお礼を述べて回った。

　そして、翌日。
　集落のゴミ捨て場では、いつもの白くて大きな背中が夕陽を浴びていた。